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夕刊フジ連載【中国・韓国にこう言い返せ!】[中国が尖閣を日本領と認めた決定的証拠あり!島民らに感謝状]9月18日から4日間、連続開始
【中国・韓国にこう言い返せ!】と題したシリーズが、4回にわたって夕刊フジで、本日18日(火)から連載されます。
その新連載1回目は、
中国が尖閣を日本領と認めた決定的証拠あり!島民らに感謝状
というタイトルで、5面下段に、載っています。
ZAKZAK版も、翌19日に公開されました。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120919/plt1209190733001-n1.htm
【中国・韓国にこう言い返せ!】
中国が尖閣を日本領と認めた決定的証拠あり!島民らに感謝状★(1)
沖縄県・尖閣諸島周辺の日本領海に先週、中国国家海洋局の海洋監視船6隻が侵入した。
中国メディアは、浙江省や福建省などの漁船計1000隻が18日か19日、尖閣付近の海域に到着する見込みだと報じている。
中国は厚顔無恥にも、尖閣の領有権を主張しているが、歴史をさかのぼれば、尖閣が日本領土であることには1点の疑いもない。
中国側の主張には歴史的にも国際法的にも、全く正当性が存在しないのである。
尖閣は元来、全くの無人島であった。
その開拓は1884(明治17)年、福岡の実業家、古賀辰四朗氏によって開始された。
その後、沖縄県や海軍がたびたび現地調査を行い、日清戦争の最中の95(同28)年1月、日本政府は閣議決定により尖閣を沖縄県の所轄に決定した。
開拓に手をつけてから11年が経過しており、日本政府は極めて慎重に尖閣の領有を決定したのである。
翌年9月には、内務大臣が古賀氏に30年期限の無償貸与を認可し、同氏は直ちに人を送り込み、尖閣の本格的開発に乗り出した。
200人を超える住民が魚釣島に住み、かつおぶし製造やアホウドリの羽毛採取を生業としていた。
1919(大正8)年には、中国・福建省の漁民31人が難破して魚釣島に漂着し、古賀氏の息子、善次氏らは、彼らを救助して故郷へ送り届けた。
時の中華民国長崎領事は、島民らに感謝状を贈ってきたが、これには遭難現場として「大日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島」と記されていた。中国が尖閣を明確に日本領土と認識していた動かぬ証拠である。
※ 中国が出した感謝状。尖閣諸島を「日本領」と認めていた決定的証拠の1つだ
第2次世界大戦中は、渡航が危険であることから無人島化したが、戦後の米軍占領時代には、久場島と大正島の2島が米軍の演習地として使用され、地権者には契約料が支払われている。
72(昭和47)年の、沖縄の本土復帰と同時に、尖閣の施政権も米国から日本に移管された。
この時点で、尖閣は完全に日本の領土として復帰したわけである。
中国や台湾が、尖閣の領有権を主張し始めたのは71年からである。
きっかけは、国連関係機関が68年に東シナ海一帯の調査を行い、尖閣周辺の海底に豊富な石油資源を発見したこと。これ以前には、中国、台湾両国とも、尖閣の領有権を主張した事実は全くなかった。
以上の歴史を振り返れば、「尖閣は古来の中国領土である」という主張が、真っ赤なウソであることが分かる。
実際、クリントン米国務長官をはじめ、米国の歴代高官は度々、「尖閣諸島は日米安保条約第5条の(適用)範囲に入る」と明言しているのである。