7月11日(土曜日)は午後2時から5時まで、池尻大橋にあるホテル大橋会館で、文明論講座の講師を務めた。
演題は『オバマ大統領で世界はどう変わるか?』。
文明論講座は、設立以来、今年で26年目を迎える伝統ある勉強会である。
私も今回の出講が4,5回目にあたっていたのではないか、と思う。
はじめの2時間は、私が講義をし、あとの1時間は、質疑応答にあてた。
質問も活発に出て、活気のある3時間の勉強会であった。
オバマ大統領を支える政治勢力についての詳しい分析を行なったほか、拙著『ドンと来い!大恐慌
』をテキストにして、現在の金融恐慌のカラクリも詳しく解説した。
持っていった『ドンと来い!大恐慌』も全て売り切れて、参加者の熱心な勉強ぶりにこちらもよい刺激を受けた楽しい3時間であった。
この勉強会にはじめ誘われたのは、当時、博報堂の会長秘書をつとめていた清水良衛(しみずよしえい)氏のご好意によってであった。
今回も、清水さんと久しぶりにお会いできたのが大変嬉しかった。
清水さんは、博報堂引退後は大学教授も勤められた文明論の大家であり、非常に幅広い知的フィールドをカバーしている百科全書派的な知識人である。
清水さんには、個人的にも色々お世話になってきたが、今もお元気で文明論講座のリーダーとして活躍されているのを見るのは嬉しい限りである。
ウィグル問題のNHKの取上げ方は、相変わらずシナ政府寄りの極めて偏向した報道である。
初期の段階で、私が最も驚いたのは、7月6日、月曜日正午のNHK第1テレビのニュースでシナの国営通信社、新華社の報道しか伝えなかった事である。
シナ政府が公開した映像をそのまま放映し、事件の概要を伝えるアナウンサーは新華社通信の報道をそのまま鵜呑みにして繰り返しただけであった。
当然、新華社通信は、暴動が世界ウィグル人会議の扇動によるものであると批難していた。
NHKは、世界ウィグル会議のカーデル代表が居住するアメリカのワシントン地域にも支局があるのだから、少なくとも反対の立場のカーデル女史のコメントを同時に放映すべきであった。
報道の客観性や中立性は全くその出だしから失われている。
その後も、NHKテレビの報道は、シナ政府の立場をはじめに伝え、その後で海外のウィグル人の抗議行動を申し訳的に報道するといった類のものである。
本日11日、土曜日、午前10時のNHK第1テレビのニュースにおいては、世界ウィグル人会議のカーデル代表の映像と発言のテロップは出たが、女史の発言に対するアナウンサーのコメントは全くなかった。
初期報道においては、日本経済新聞なども、新華社通信の報道をそのまま繰り返すだけであった。
多くの日本人はおそらく、新華社がシナの国営通信社であることすら知らないのではないか?
テレビニュースなどでは特に、新華社によればという一言は、見る者の記憶に残らない可能性が大であろう。
NHKテレビの視聴者は、知らず知らず、シナ共産党独裁政府の立場を正当なものと考えるように情報操作されている。
ここにきて、JAPANデビューで明らかになったNHKの体質が、益々露わになってきている。
NHKはシナの中央電視台の日本支局にすぎないのであろうか。
※ 過去参考記事:
2009,03,18 日本ウイグル協会主催シンポジウムにて講演
2009,03,30 シンポジウム『シルクロードにおける中国の核実験災害と日本の役割』が放映
2009,04,01 『Uighurs Killed by Chinese Nuclear Tests』 by Gemki Fujii
昨年秋、村田良平元外務次官が回顧録(村田良平回想録 上巻?戦いに敗れし国に仕えて
)を出版し、その中でアメリカの核兵器の日本国内の通過が日米間の密約で認められている事を明らかにした。
その後の新聞各社とのインタビューでも村田元外務次官は密約の存在を確認している。
この密約とは、米軍が自ら持つ核兵器を日本領土を通過させる事を日本政府が承認したものである。
日本の領土(領海・領空を含む)を通過する事を認めたものである。
世の中では、この密約に対する批難轟々の様子だが、私はこの密約を断固、支持する。
密約という形で、日本国民に嘘をついてきた外務次官その他の関係者に対して、関係者を、私は心から賞賛する。
何故なら、彼らの勇気ある「嘘」のお陰で、過去数十年間(約50年間)日本の安全は、保たれてきたからである。
核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない、を非核三原則と称している。
持ち込ませないの中に、日本の領土・領海・領空の通過を許さないという原則を入れるならば、この密約は非核三原則に反している。
また、日本国政府は歴代そのような解釈を貫いてきた。
しかし、持ち込ませないの解釈を、日本領土の中に恒常的な核ミサイル基地を作らない、しかし核兵器の通過は許可する、という解釈を取るならば、密約は非核三原則には抵触しない。
しかし、非核三原則自体が適当なものであるかどうか、は私の一義的な関心事ではない。
最も重要な点は、米軍の核通過が、日本の核抑止力に貢献したという事である。
別の言い方をすれば、アメリカの核の傘という神話の信ぴょう性を、米軍の核通過が高めた事になる。
いずれにせよ、この密約のお陰で、日本に核兵器が一発も落ちなかったし、日本領土に対する公然たる侵略行為が、最小限に抑えられた事は事実である。
この、密約なしでも、日本国民の頭上に核兵器が落ちる事はなかったかもしれないし、日本国の安全は保たれたかもしれない。
しかし、それは仮想であり、夢想にすぎない。
われわれが知っているのは、密約が存在し、そして過去50年間、日本に対する核兵器の攻撃は抑止され、日本の領土に対するさらなる侵略は起こらなかったという事実である。
何故そもそも核兵器通過を密約としなければならなかったのか?
答えは単純である。
強大なマスコミの洗脳のもとに、多くの日本人が核アレルギーと呼ばれる異常な心理状態に陥っていたからである。
如何なる勇気ある政治家(例えば60年安保改定を実行した岸信介のような)といえども国民にそれを定義する事が出来ぬほどに日本国民の心理状態は、国際的な国防の常識からは遠ざかっていたのである。
最も大平元首相は、ライシャワー元大使に、この密約の公開を約束していたというから、ある時点から先は政治家の勇気の欠如こそ、責められるべきであろう。
特に、長期安定政権を実現していた中曽根元首相などの不作為の罪は誠に重大だと言わなければならないだろう。
国にどうしても必要な政策がある。
それがなければ国民の安全を確保する事が出きない。
しかし、その事を国民に公表すれば、国民はその政策を排除する事が目に見えている。
デモクラシーの国家体制を取る国で、このような状況に直面した時に、エリート(政策決断者)は如何に行動すべきなのか?
国民に嘘をつくというのが最も正しい、そして有効な解決策であろう。
時間をかけて事実を以ってして国民を徐々に説得してゆくしか方策はなかったのである。
国民の安全の為に、敢えて自らの手を汚して、必要な嘘をつき続けてきた関係者各位に心から私は敬意を表したい。
もちろん、中には単なる官僚主義的な慣習によって、この密約を守り、国民に嘘をつき続ける事に何の良心の呵責も覚えなかったものもいるであろう。
しかし、村田元次官のように、敢えて自らの道徳的な責務を痛感し、様々な危険を覚悟の上で、日本国民に真実を告げた外交官も存在しているのである。
こういった人々は、密約の存在に大いに心を痛めてきたのである。
今や、日本国民は真実に直面すべき時である。
日本の核抑止力を高めるために、堂々と事実を承認し、米軍の核兵器通過を認めようではないか。
それは、狭義の非核三原則を犯すことにはならない。
(通過は「持ち込ませず」の範囲には入らないこととする。)
日本の周辺を見渡してみよう。
ロシアとシナは核兵器を持ち、北朝鮮も核兵器保有国となった。
特に反日意識の激しいシナと北朝鮮の核兵器の保有は、日本にとって明白にして現前する危機である。
日本国民が密約を排して、堂々と米軍の核通過を認めれば、それだけで日本の核抑止力は高まり、日米安保条約の抑止力全般も向上する事になる。
今こそ、その決断の時である。
村田良平元外務次官の勇気と責任感に心からの敬意を表したい。
村田氏の行動は田母神元空将の行動と同様に、愛国心から発した捨て身の行動であるに違いない。
人は、マキャベリズムを批難する。
しかし、マキャベリズムは正しい思想かもしれない。
多くの人は、マキャベリを読まずして、マキャベリを批難している。
しかし、マキャベリが主張したのは、以下のような事だ。
イギリスやフランスに比較して、国家統一が遅れ、小国の分立状態にある祖国イタリアの憂うべき現状を見て、マキャベリはイタリアの国家統一こそ至上の国益であると喝破した。
そしてそのイタリアの国家統一という至上の国益を実現するためには、あらゆる方策は許されると主張したのである。
これに習い、(正しい目的の実現のためには、時には非道徳的な手段も許される)というのが正しいマキャベリズムの解釈である。
人は、この後半の非道徳手段の採用の部分にのみ着目し、マキャベリズムを批難する。
しかし、より重要なのは、前半の方なのである。
つまり、「正しい目的のためにこそ」非道徳手段は許されるのであり、あらゆる目的のために、非道徳的手段が許されるわけではない。
また、非道徳的手段の採用が、初期の正しい目的を破壊してしまうならば、非道徳的手段は実行されるべきではない。
これもマキャベリズムから引き出される当然の結論である。
俗な言い方をすれば、至上の国益が実現されるならば、「結果オーライ」という考え方である、と言ってもよいだろう。
この密約問題に関しては、日本国民の大部分はマスコミの誤った情報操作のもとにあったとはいいながら、あまりに愚かであったというしかないであろう。
敢えて、勇気あるマキャベリストとなった関係者の行動は、後世の歴史家に高く評価されるのではないか?
ウィグル問題について、当事者の真実の声を聞きたい方は、私の友人のイリハム・ムハマティさんがチャンネル桜でインタビューを受けているので、是非、それを一人でも多くの方に見てほしいと思います。
現在、一般のテレビメディアでは、あまりにも酷い、著しい偏向報道ばかりがなされています。
そして、これを御覧になられた方は、ブログやメール等々で、この映像を是非、一人でも多くの方々に伝えてください。
では以下の映像を、是非、御覧になってください。
1/3【イリハム・マハムティ】今、ウイグルで何が起こっているか[H21/7/8]
1千人を超す死傷者が発生しているという東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)での「騒乱」について、日本ウイグル協会会長のイ リハム・マハムティ氏の主張が放映されています。
2/3【イリハム・マハムティ】東トルキスタンの歴史と中共の弾圧[H21/7/8]
ビデオを見ながら、東トルキスタンの歴史と中国共産党政府が行ってきた弾圧、居住地区で強行した核実験などの非人道的行為につい て振り返っていきます。
3/3【イリハム・マハムティ】7.12 中国政府によるウイグル人虐殺抗議デモ[H21/7/8]
今回の東トルキスタンの非常事態を受け、7月12日に中国政府に 対して抗議デモを行われます。
「今日のウイグルは明日の台湾、明日 の台湾は明後日の日本」となりかねません。
心ある皆様のご参加を お願いいたします。
【東トルキスタン】中国大使館への抗議と関連記事紹介[H21/7/9]
今回の東トルキスタンでの流血の惨事に対し、在日ウイグル人達に よる中国大使館への抗議行動が7月8日に行われました。
その抗議行動の様子をお伝えするとともに、関連記事を見ていきます。
シリーズ『共和制革命を狙う人々―世襲制批判・批判』 第6回
第6回 「世襲制批判・批判」
最近よく、「世襲制」への批判を見聞する。
主に政治家(代議士)の世襲制への批判であり、これには最もなところも多い。
しかし、少し深く物事を考えてみると、一般的な世襲制批判もまた、共和制革命に結びつく危険な思想である。
世の中には、世襲が適当であるものと、適当でないものがあるようだ。
世襲制一般を否定してしまうと、やがては日本人にとって最も重要な世襲制を否定してしまう事になる。
その最も重要な世襲制とは天皇の世襲制である。
他の世襲制度は否定されても、天皇の男系男子による世襲が否定されてしまえば、日本という国そのものが破壊されてしまう事になる。
それ故に、世襲制一般に対する批判は、きわめて慎重に行なわなければならないだろう。
そして、世俗的な世襲制一般に関しては、様々な議論が存在してよいが、皇室の伝統に関しては世襲制こそがその命であり、それを否定する事は日本を大事に思うものにとっては原理的にはあってはならないことである。
今、最も一般的に否定されている世襲制は「政治家の世襲制」である。
麻生総理大臣はもとより、それに対抗する民主党の鳩山代表や、前代表の小沢一郎氏にしても皆、政治家の何代目かである。
台湾の李登輝元総統は、日本を愛して止まない誰もが知る親日家であるが、日本の政治家の世襲制だけはよくないと日本人に苦言を呈している。
李登輝さんほどの愛日家がそういうのだから、外国人の視点から見ても、日本の政治家の世襲に大きな問題があるのは確かである。
能力のある、特に国際的な交渉力のある政治化が、世襲制では中々生まれにくいのは事実である。
ここのところ、日本の総理大臣を務めた安倍氏や福田氏にしても、如何にもひ弱さと剣が峰に立っての度胸の無さが目立った。
その前の小泉総理は、三代目の世襲政治家ではあったが、中々に見解に強くピンチに立っても堂々と行動していた事だけは評価されてよいだろう。
しかし、一般的に言えば、安易に政治家の地位を手に入れられる二世、三世、四世の政治家がひ弱であり、度胸も無く、国際的な交渉力に欠けるというのは事実である。
しかし、民主的な選挙制度をとる日本においては、世襲政治家を選出しているのは、つまるところ選挙民である。
相対的に世襲政治家への安心感が強いので選ばれてくるだけの話であろう。
確かに世襲なくして安定した代議士のポジションを得ることはきわめて難しい。
多くの潜在的な政治的能力を持った人々が、政治家になろうとしないのは、あまりに長い時間とエネルギーを必要とするからである。
20代でスタートしたとして、徒手空拳の政治家志望者であれば、国会に安定した議席を得るまでに、少なくとも20年の歳月は必要とされるであろう。
これは、あまりにもリスクの多い職業選択の道である。
国政で活躍しようとするものにとっては、国会で安定した議席を得られる時点がスタートラインに過ぎないのである。
つまり、ごく普通の人間であれば、国政レベルの政治家としてスタートラインに立つ為に、少なくとも20年の歳月を費やさなければならないのである。
競争力の無い世襲制の政治家を排除し、能力のある「非世襲の政治家」を国会に送るには、選挙民の見識が高くなければならないだろう。
また、それだけではなく、政党が優れた候補者を組織的に応援し、非世襲の優れた人材が過剰な負担を個人的に負うことなしに政治家になる仕組みやルートを作っていかなければならないだろう。
そのような努力を怠って、世襲制批判だけをしていても全く無意味のように思われる。
世の中には歌舞伎や能の役者のように、世襲を前提にしなければ伝統が継承できない職業も存在する。
子供に適正がなければ世襲は不可能だし、養子という制度も用いられるが、伝統的な家という枠組みがあってはじめて伝統芸能の伝統が継承されてゆく事が出来るのである。
こういった場合は、世襲制は寧ろ、賞賛されるべき制度であって、何ら批判されるべきところはないように思う。
世襲制批判の前提となっているのは、原理的に言うならば、おそらくは、個人を過去の伝統や制約から切り離し、孤立した自由な人格と考える哲学であろう。
しかし、我々の中の誰が一体、自由な電子のように過去から一切解き放たれた存在でありうるだろうか?
我々の誰しもが、親からの遺伝という拘束条件を受け、時代と場所という動かし難い自分の選択しなかった状況の下で生きてゆく事を余儀なくされている。
与えられた運命の中で、我々の持つ自由の度合いは、実はきわめて少ないと言わなければならないだろう。
精神的にも、肉体的にも、我々は先祖伝来の遺伝的影響の下に存在しているし、幼児にとって、決定的に重要である環境すら幼児であった我々自身が自由に選び取ったものではないのである。
しかし、人がもし、真に生甲斐のある人生を送りたいのならば、如何なるものであれ、一旦、これらの非拘束条件を全て運命として受け入れ、これを肯定するところから出発しなければならないだろう。
この覚悟を「運命愛」と名づけた人もいる。
「運命愛」を持ちえた時に、逆説的だが人は、はじめて自由な存在となり、つまり己がどのようにどの程度、自由であるかを自覚する事が出来るのである。
如何なる非拘束条件があろうとも、人が現在から未来に歩みだす時、その選択の幅が如何に狭くとも、選択が存在する限りにおいて、人間は全く自由である。
おそらくは死の直前にいたるまで、人は選択的には自由であり続けるしかないのである。
このように人の運命と自由を考えていれば、人はある意味で誰しもある一定の世襲制のもとに生きている訳である。
それを完全に否定し、人があたかも完全に自由な選択をしうる存在だと考えるのは、あまりに楽観的であるし、あまりに愚かな人生観であろう。
一律的な世襲制批判は、以上のような底の浅い考え方からのみ生まれてくる劣化した感情論でしかないだろう。
その感情論が、隠蔽しているのは、多くの場合、優れたものへの嫉妬やルサンチマンあるいは、劣等感なのであろう。
そのような劣悪な感情からは何も美しいものは生まれて気はしない。
※ 次回、シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第7回『国家よりも党を重視する民主党 ― 民主党のイギリス・モデル傾斜の危険性』 に続く。