日本のマスコミを見ていると、全く分からない事だが、アメリカの真っ当な愛国者の多くは、オバマ政権のいい加減さにへきへきしているし、オバマのノーベル平和賞受賞には口を開いてモノも言えないといった人達が多い。
口を閉じて何も言わないのでは抗議にはならないので、アメリカの信念ある愛国者達は、ユーモアとウィットを込めたオバマへの批判を様々な形でインターネット上に展開している。
実に皆さん、芸達者でエンターテイメントとしても一流のものが多い。
今日は、その内のいくつかを紹介したい。
いずれもアメリカで大人気であり、話題のYouTube映像である。
第一は、ティム・ホーキンス(Tim Hawkins) の『 The Government Can 』という作品である。
元歌は日本ではサミー・デイビス・ジュニアの歌で、広く知られている『キャンディー・マン(キャンディー売り)』である。
オバマのばら撒き政策と、政府万能主義をからかい、おちょくった、実に楽しい、しかしその内容はシリアスな作品である。
Tim Hawkins - The Government Can
先ず、出だしが面白い!
「ただで大学へ行きたいかい? エネルギー!? 住宅ローン? み-んな♪君にあげるよ♪
君の欲しいものは、何でもあげるよ-!♪
それは政府が全部、出来るんだ♪」
という何とも皮肉の利いたメッセージである。
しかし、同じような話は「日本の民主党」からも、聴こえてくる。
「大きな政府が全てを解決してくれる」そうである。
しかし、政府のお金はどこから来るのかなぁ?
それは税金しかない。
つまり!我々が働いて収める税金しか、政府の収入源はないのである。
よく考えてみれば、「大きな政府」とは「重い税金の事」ではないのかなぁ?
、という事に思い当たる。
こんな当たり前の真実を、如何にもアメリカ人らしいウィットに込めて、歌っているのが、この曲である。
思わず、一緒に口づさんでしまう程の、ホーキンスの歌の巧さである。
何とも、日本の民主党から選挙期間中に散々聴かされた「楽しい夢物語のようなお花畑選挙演説」に瓜二つの世界である。
今、アメリカでは、『キャンディー・マン』のメロディーに合わせて、オバマ大統領をからかう、そしてユーモラスに批判する類の替え歌の様々なバージョンが大人気の様である。
「オバマ・キャンディー・マン♪」の別のバージョンも紹介しておこう。
BOB&TOM TV: "Obama Man" by Greg Morton
此方の方は、もうチョット、毒の少ない風刺という感じである。
でも、出だしが面白いなぁー。
今度はこんなセリフから始まる。
「やぁーみんなー!、
AIG♪、バンク・オブ・アメリカ♪、シティー・グループ♪、ファースト・ナショナル、ローンスター♪ (←みんな大手金融機関の名前)、
どれだけ欲しいんだい!? 10億ドル? 20億ドル? 30億ドル?
僕は君達のキャンディー・マンさぁ---♪(笑)」
というのである。
途中でこんなセリフもある。
「明日の収入を今日使うのは、それは“オバマ・マン”さぁ-♪」というのである。
“オバマ・マン”とは、日本語でいえば、「オバマ派」、もしくは「オバマ支持者」という程の意味である。
次に紹介するのは、アメリカ独立革命の英雄、トマス・ペインに扮した名優が、オバマ現大統領に語りかける言葉である。
アメリカ建国の原点から如何に今日のアメリカの政権が偏向してしまったかを、トマス・ペインに扮した名優が、迫真の演技で語りかける。
彼は言う、
「建国の父達は、墓の中で安眠も出来ずに、寝がえりをうって苦しんでいる事でしょう。」
「我々は今や、アメリカの終焉に直面しています。」
「議会や官僚制が、アメリカなのではなく、アメリカとは自分たち自身なのである」というアメリカの愛国者の力強い原点から肺腑を貫く熱情の言葉が溢れてきます。
正直言って、私は、この演説を繰り返し聴き、思わず、瞼が熱くなってくるのを抑える事が出来なかった。
アメリカ人の気質を知るものならば、この演説が如何に、名演説であるかを直ちに了解する事が出来るであろう。
そして、このトマス・ペイン役を最も勇敢に演じきった役者が、ロナルド・レーガン大統領であったとも言いうるであろう。
Open Letter to President Obama
この「トマス・ペイン」がいう、「アメリカ建国の父達」という言葉は、明治維新を成し遂げた志士達の事だともいえるであろうが、私には寧ろ、「靖国神社に眠る英霊」と言い換えた方が現代の日本人には、より胸に迫るものがあると思う。
靖国神社の英霊達に向かって、恥ずかしくない日本を創るという事こそ、我々の至上の使命であると思う。
また、その事を思えば、あらゆる政治的問題に対する答えは自然に我々に与えられると思う。
そのような想いで、この映像を見ると、感動はひとしおである。
世界中の愛国者の語る言葉は、8割、9割、一致しているし、特に文明国においては、それは一層、正しい真実である。
リベラルなメディアの謀略に対抗する為には、世界中のそれぞれの国の愛国者や保守主義者が直接に理解し合い、出来得る限り団結する事が必要であると確信する。
私はそのような確信の下に、日米保守会議を創り、若干の活動を行なってきたのである。
ところで、この映像の名演説の最後の言葉がまた、素晴らしい!
「Simplify, Mr. President. …Simplify! 」
この言葉をシンプルな日本語に置き換える事は至難の業だ。
何と言ったらよいのだろうか…。
「一番、大事な事をやりなさい。一番大事なことだけを…!」と、でも訳せるだろうか。
「ごちゃごちゃした理屈っぽい、議論は止めて、アメリカ建国の原点に返ってくれ、そうすれば答えは簡単に見つかるはず」
そういうメッセージであると思う。
アメリカ民主党の言動は、日本の民主党のそれと、極めて類似している。
この演説を我々自身の問題として、受け止めてみたいと思う。
政府に全ての問題の解決を求めるのはナンセンスだ。
何故なら、政府とは、我々が創り上げる、我々が構成する、一機関に過ぎないからである。
官僚に任せるのではなく、政治家に任せるのでもなく、全ては我々自身が自らの手で解決しなければならないのだ。
政府とは、我々自身の事である。
政府に任せるという考え方には常に、欺瞞が付きまとう。
人に任せるのではなく、我々自身の問題は、我々自身が解決しなければならないのだ。
現在の日本の政治には、このような自立の思想が甚だ希薄になっている。
自民党も民主党も「自分たちに任せてくれれば問題がマジックのように解決する」と主張している。
しかし、これは欺瞞と偽善以外の何物でもないだろう。
政府の使う予算は我々が税金として納めるものであり、政府が雇う官僚は、我々と同じ国民の一員である。
我々は政府に頼る事は出来ないのだ。
「政府に頼る」とは実は、我々が我々自身に頼るという事である。
それは、自らの問題は自らが解決するという事に他ならない。
政府やお役所という何か天下り的な第3者が我々を苦労なしに救ってくれるという事は有り得ないのである。
こんな当たり前の真理を、これらのアメリカの愛国者達のYouTube映像は、我々に覚醒させてくれるのである。
アメリカのオバマ民主党の言う事と、日本の鳩山民主党の主張するところは、極めて似ている。
しかし、その欺瞞や偽善に誤魔化されてはならない。
我々自身の問題は、政党でも官僚でもなく、我々自身の手によって解決していかなければならないのである。
また、特殊な利益団体や圧力団体が、民意とは全く逆の政権を組織しうる危険性もある。
選挙を通じたからと言って、常に民意が叶う政権が実現する訳ではない。
この事に我々は、十分に注意しなければならない。
国民の大部分は、福島瑞穂社民党党首を、大臣にしようと思って投票した訳ではない。
しかし、今や彼女は少子化・消費者担当大臣に祭り上げられている。
政党とマスコミの癒着は、民意が素直に政治に反映される事を拒んでいる。
日本でも、アメリカでも、この事実に変わりは無いと言える。
世の中には、未だにノーベル賞幻想に惑わされている人がかなりいるようである。
「ノーベル賞」、特にその「平和賞」や「文学賞」は、完全に情報謀略と言っても良いと思う。
この情報謀略を仕掛けている主体は、恐らくはヨーロッパを中心とする世俗的なエスタブリッシュメントのワン・ワールド主義者である。
例えば、今年のノーベル賞でいえば、オバマ大統領は核廃絶のリーダーシップを取るという演説をしただけで、実は何も行動はしていない。
これに対してノーベル平和賞の今年の候補者の中には、シナ共産党の弾圧に抵抗した何人かのシナの民主化運動のリーダー達も含まれていた。
そういった人々の方がはるかにノーベル平和賞に値したであろう。
最も、ノーベル平和賞が常に、偽物に与えられる訳でもなく、例えば、チベットのダライ・ラマの受賞はシナの独裁と侵略に対する1つの抵抗の拠点とはなった。
しかし、ノーベル平和賞受賞者に偽善の匂いが漂う事は確かである。
例えば、アルバート・ゴア元米副大統領の環境問題を理由にしてのノーベル平和賞受賞には、世界の多くの識者が疑問をていしている。
逆にいえば、多くのノーベル平和賞を受賞する偽善者の偽善をごまかす為に、時に本当に尊敬されるべき人物であるマザー・テレサや、ダライ・ラマが平和賞を与えられるのであろう。
謂わば、ノーベル賞プロパガンダに利用されるのである。
日本では、佐藤栄作元首相が、ノーベル平和賞を受賞した時に、日本人の「ノーベル平和賞幻想」はかなり大きく崩れた。
佐藤栄作は、自民党長期政権を代表する、非常に不人気な政治家であったので、日本人の多くはノーベル平和賞が如何に政治的圧力によって決定されるかについて、白けた想いを抱いたのである。
最も、佐藤の不人気は日本の左翼反体制派でこそ、強烈だったので、彼らはノーベル賞の偽善性にこの時、気がついたはずであるが、例えば朝日新聞に代表される反日左翼メディアは、この時の落胆をスッカリ忘れたふりをして、オバマの平和賞受賞や、大江健三郎のノーベル文学賞受賞を喜んでみせたのである。
ところで、ノーベル文学賞はどうだろうか?
川端康成がノーベル文学賞を受賞した時は、経済大国となった日本への挨拶のようなものであった。
大江健三郎のノーベル文学賞受賞は、日本の若者を大江文学によって堕落させ、日本を解体する為の情報操作としか思えなかった。
最も、大江氏は、ノーベル賞受賞の為に、多大の金銭と労力を費やしたようで、この努力を高く評価するノーベル賞ロビイストはいる。
ノーベル賞の選定は、オリンピック開催地の選定同様に、最も醜いパワーゲームが繰り広げられる場として、あまりに有名である。
大江健三郎が最近、台湾を訪問した。
台湾の良識的大衆が大江の腐敗した言説を、ノーベル賞の名前に幻惑されて、日本の良心だなどと、誤解しない事を望むばかりである。
大江健三郎は、2006年シナ共産党の情報部門のトップである李長春と会談し、シナ共産党のプロパガンダ要員の一員に公に任命されたような自称「文学者」である。
今回の台湾国民党による大江の招待は、シナ共産党の推薦によるものであろう。
また、NHK「JAPANデビュー」問題を相殺する非常に格好のメディア操作の題材として、利用されている。
逆に推論するならば、大江健三郎まで持ち出したという事は、シナ共産党や国民党が如何に「JAPANデビュー」問題でダメージを受けているかという事の証明にもなるだろう。
オバマ・アメリカ大統領のノーベル平和賞受賞が決定した。
これについて、コメントしようとすると、あまりにも多くの視点が頭に浮かび、整理するのに困るほどである。
オバマのノーベル平和賞受賞は、世界を混乱した群雄割拠に、言い換えれば「新世界無秩序」により速やかに導く、1つの分水嶺になるであろう。
ブッシュ・シニアは、アメリカの強力なリーダーシップを前提とした「新世界秩序(
New World Order)」を訴えたが、アメリカの衰退を前提としたオバマの核廃絶宣言は、世界を「新世界無秩序(New World Disorder)」に陥れる事になるだろう。
そもそも、自国のハンド・ガンのガン・コントロールすらできない国が、世界の核兵器のコントロールできるわけがない。
これが先ず、私の大雑把な結論である。
以下、論点を整理しながら、知見を述べてみたい。
第1に、日本人に重要な事は、これがアメリカ帝国の衰退を決定的に物語る現象であるという事である。
そもそも、オバマ大統領の核兵器廃絶宣言自体が、アメリカ帝国が如何に軟弱になり、如何にひ弱になり、そして今や衰退しつつある帝国であるかを如実に物語っている。
世界第一の軍事大国であるならば、その地位を保全しようとするのが当然であるし、例え核軍縮を合理的判断からするにしても、核戦略における己の総体的比較的な優位を保ちつつ、それを行なおうとするのがアメリカの当然の戦略であろう。
ところがオバマ大統領は、核戦略におけるバランス・オブ・パワー的発想を放棄し、これを全廃しようとする道を少なくとも表面的には世界に宣言している訳である。
これは他の各国に対して軍事的優越を総体的に保っていこうという国家意志の明確な放棄である。
このような大統領を選んだ事自体が、帝国アメリカの如実な衰退を物語る。
核兵器廃絶の先頭にアメリカが立つとはどういうことであろうか?
我々は容易に次のような状況が現実になるのを考える事が出来る。
アメリカが全ての戦略かつ戦術的核兵器を放棄してしまい、しかしシナやロシアや北朝鮮が核兵器を保有しているという近未来の現実である。
このような状況が現実になる可能性は十二分である。
あるいは、ロシアやシナや北朝鮮は表面上は核兵器を廃絶すると宣言するかもしれないが、本気で彼らがそれを実行するとはとても思えない。
これらの国々は秘密裏に核兵器の保有を続けるであろう。
アメリカ自身がこのような危険な戦略判断を推し進めるならば、確実に言える事は、アメリカが友好国に対して提供していると言われる、核の抑止力の傘がもう存在し得なくなるという事である。
アメリカの核兵器が存在しなくなれば、勿論、今日あるとは想定されてはいるが、極めてその存在の疑わしい日本への「核の傘」が存在しなくなる事は明らかである。
アメリカが核兵器を全廃しないまでにしても、他の核保有国に対する核戦略上の優越的地位を放棄しようとしている事は、オバマ政権が継続する以上、確かな事である。
そうである以上、アメリカの核抑止力の日本への供与(核の傘)の信ぴょう性は日々、現実性を失っていると言わざるを得ない。
オバマの核兵器全廃宣言にも、アメリカの戦略的意図が無い事は無い。
第一に、核兵器全廃宣言によって、今後の核保有国の増大を防ごうとしている。
第二に、核兵器を製造する原材料を世界的に、厳密にコントロールする事により他の国家やテロリスト集団が核兵器を製造できないようにするという合理的理由もその核廃絶宣言の背後にはある。
しかし、これらの要素を考えるにしても、アメリカの核廃絶宣言のメリットとディメリットを考えるならば、この宣言はアメリカの国益に反するのは勿論、日本の現在の国益すら危うくするものである。
あるいは、私自身が知らない要素が存在しているのかもしれない。
それは、アメリカが既に核兵器以上の強力な兵器を開発しているという可能性である。
常々、私が書いたり、発言したりしてきた事ではあるが、核兵器を人類が廃絶出来るとすれば、それは人類が核兵器以上の強力な兵器を発明した時だけである。
今日、弓矢を正規の兵器として採用している軍隊は世界中の国家にはどこにも存在しない。
単に、弓矢以上の強力な兵器が発明されたからである。
日本がこのアメリカの軍事大国としての立場の衰退から受ける影響は非常に大きい。
核戦略ならず、あらゆる点において、オバマ大統領の目指す方向はアメリカが他国に対して持っている軍事的優越を放棄するという方向である。
日本は核兵器のみならず、通常兵器の点においても、益々独自の抑止力を増大させていかなければならないだろう。
それが唯一の合理的な判断である。
仮にオバマ大統領の理想が実現して、現在の核保有国が全て核兵器を全廃する事に成功したとしよう。
この時、表れてくるのは、実に恐ろしい戦争の多発する世界であろう。
少なくとも、第二次世界大戦後、大国の間には核の抑止力の論理が厳然として存在して来た。
米ソの間に大戦争は起こらず、ソ連とシナの間にも大戦争は起きなかった。
ところが、このような核兵器の戦争抑止の力が失われるとするならば、通常兵器における戦争はより起こりやすくなるであろう。
核兵器廃絶の後に来るのは、平和な世界ではなく、通常兵器を使った軍事紛争が大国間で頻繁に起こる世界ではないのか?
あるいは、大国間の直接の紛争は回避されるにしても、大国にバックアップされた小国間で軍事紛争が多発する世界なのではないだろうか?
米ソ冷戦が終わった後に、ヨーロッパではともかく、世界的に大軍拡の時代が来た事を大部分の日本人は知らないでいる。
加えて例え、現在の核保有国が全部、核兵器を廃棄したとしても、新たに核兵器を保有したいと思う新興国の欲望を制限する事は出来ないだろう。
例えばイランは核兵器開発を止めないだろうし、そうすればイスラエルが核兵器を放棄する事も有り得ない。
そもそも、国内でハンドガンのガン・コントロールさえ出来ない国が、世界の核兵器の廃絶を行なうことなど、不可能である。
オバマの運命は、ウィルソンの運命と同じになるかもしれない。
アメリカのウィルソン大統領は、第一次大戦後、国際連盟を提唱したが、議会の反対によりこれに加盟する事は出来なかった。
オバマ大統領が例え、核廃絶を唱えても、アメリカ議会の冷静な声がこれに反対し、彼の政策を妨害する事は十分に考えられる。
2010年秋の中間選挙でオバマ与党の米民主党の勢力が、かなり後退する事は確かである。
一言付け加えるとすれば、オバマはホモセクシュアルとレズビアンに対して、その差別撤廃に関して大胆な公約をしていた。
それが実行されていないという事で、ホモ・レズ圧力団体は今、オバマに強力な圧力をかけつつある。
これもまた、次期中間選挙に大きな影響を与えるであろう。
もし、ホモ・レズ圧力団体の望むような同性結婚等を許せば、アメリカの良識派の大きな反発を買うであろう。
また、ホモ・レズ団体への公約を破れば、民主党リベラル勢力の強力な柱である彼らの支持を決定的に失う事になる。
この矛盾に悩むオバマ大統領にとって、ノーベル平和賞受賞は、しばらくの間、この問題から世間の関心をそらす絶好の政治的効果があるに違いない。
今日は、午後から上野の国立西洋美術館で催されている『古代ローマ帝国の遺産―栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ』を観に行ってきた。
個々の美術品の感想はさておくとして、何よりも感じたのは、ローマが偉大な俗物の帝国であるという事であった。
美術や学問の独創性においては、遠く古典ギリシアには及ばなかったが、彼らは巨大な土木工事を行ない、壮麗な都市を建設し、普遍性のある法令による壮大な帝国統治システムを創り上げた。
当時のポンペイの住居がコンピュータ・グラフィックで再現されていたが、今日の我々の水準から見ても、実に羨むべき物質的快適さが保障された家屋である事に感嘆せざるを得なかった。
VR映像はここのページでも見られます⇒ http://roma2009.jp/highlight/chapter6.html
(ここで寝椅子に横になって、葡萄酒でも呑みたかったなぁ…。)
私は酒好きなので特に酒器の精巧なものに目を奪われた。
当時のローマ市民は極めて高いレベルの物質的生活を享受し、それは恐らくは20世紀におけるアメリカ文明の物質的繁栄にも匹敵するものだったのではないだろうか?
現在、この時点で古代ローマ帝国の遺産を見ると、どうしてもローマ帝国とアメリカの間のアナロジーに想いを致さざるを得ない。
アメリカは間違いなく現代のローマ帝国なのであろう。
そして、そのアメリカ帝国が現在、衰退に向かいつつある事は確かである。
ローマ帝国の衰退、そしてかつての大英帝国の崩壊と比較する事により、今日のアメリカ帝国がどのように衰退してゆくかは、ほぼ想像する事が出来ると思う。
今日のアメリカにおいては、生産力の衰退にも関わらず、過度の消費が続き、これが帝国衰退の最大の原因となっている。
経済の衰退は当然、軍事力の弱小化をももたらす。
アメリカは最早、世界の警察官たる事に耐えきれなくなっている。
また、経済と軍事の衰退の更に根本的な原因となっているのは何よりも、アメリカ人の精神的価値の崩壊であろう。
アメリカを創り上げた強烈なピューリタン的精神は物質主義とあまりにも多様な移民の流入によって失われつつある、としか言いようがない。
ローマ帝国の崩壊と比較しつつ、今日のアメリカの衰退現象を見ると、オバマ大統領の位置づけもおのずと世情言われているのとは変ったものに見えてくる。
アメリカの上流階級がその指導性を失い、いわばどこの馬の骨ともしれない人間が大統領になったわけである。
これは黒人解放という点では前向きに評価される事であるが、多面からすればアメリカをリードすべきエスタブリッシュメントの衰退をも意味するのであろう。
ローマは栄華を誇り、やがて衰退し、崩壊していった。
東ローマ帝国は長く持続はしたが、その文明は停滞したままだった。
滅んだ西ローマ帝国からはやがてヨーロッパの近代国家が産まれてゆくが、それには何百年もの長いプロセスが必要であった。
ローマは滅びても、その周辺にローマに匹敵するような、あるいはそれを凌駕するような大帝国が存在していた訳ではない。
ローマ帝国は崩壊はしたが、そこから中世のヨーロッパがスタートし、長い目で見ればヨーロッパ発展の基礎を築いた事になる。
しかし、アメリカの衰退はこれとは全く異なる国際的文脈の中で起ころうとしている。
アメリカに対抗する勢力には、EUのみならず、ロシアやシナといった、全く異質の帝国も存在する。
特にシナの帝国主義は最も野蛮な性質を備えており、これが拡大するならば、ヨーロッパ近代の人権や自由やデモクラシーといった政治的価値は全て否定されてしまうであろう。
つまり、アメリカ帝国の崩壊の後に来るのは、異なる文明圏の群雄割拠的な混乱の時代であり、特にシナ帝国の膨張主義はアジアにとって極めて危険な要素である。
日本は、1つの独立した文明圏としての自覚を持ち、この現代のローマ帝国とも言うべきアメリカ帝国の衰退に如何に対処してゆくべきなのか?
単に国家戦略的なレベルのみならず、文明論的な視野からこれを考え、実行しなければならないだろう。
本日観た彫刻の中で一番面白かったのは、『豹を抱くディオニュソス』であった。
これは、この展覧会のポスターにも使われている秀逸な作品である。
豹の子供を抱いているというが、これがイタチかテンを抱いているように見える。
何やら不思議な彫像であり、怪しげな美しさを感じさせる。
今日の一句
何を抱く 上野の秋の ディオニソス
厳喜
シリーズ『共和制革命を狙う人々―国家よりも党を重視する民主党』 第7回
第7回 「国家よりも党を重視する民主党― 民主党のイギリス・モデル傾斜の危険性」
9月16日の鳩山政権誕生以来の民主党政権の動向を観察して来ると、1つの事が非常に明らかである。
それは、政党があらゆるものの優位に立ち、国家機関すらも政党が指導するという、ある意味で政党独裁の体制に国を導いていこうという危険性である。
身近な国でいえば、鳩山首相や岡田外相や小沢幹事長が大変、親しみを感じているらしい中華人民共和国の共産党独裁の体制を思わせるような国家に対する党の優位の状況が日本で今、創られつつある。
民主党が言う、「官僚に対する政治家の優位」とは、実は、政党が国家機関の上位にあり、それをコントロールするという危険な思想ではないのだろうか?
シナでは、シナ共産党が国家機関の上位に立ち、全てをコントロールしていることは周知の事実である。
このような体制に日本がなってよいはずがない。
国民も日本がシナのような独裁国になる事は許さないであろう。
しかし、民主党はイギリス・モデルの統治をそのまま日本に導入しようとしている。
これは一見、日本国民にもよい印象を持たれているようだ。
何故なら、イギリスは君主国であり、立憲民主制の日本と共通項があるからである。
ところが、盲目的にイギリス・モデルを日本に導入する事には大きな危険性がある。
イギリスではかつて、王政を否定した共和制革命があった。
ピューリタン革命と呼ばれ、この後に出現したのがクロムウェルを中心とする独裁政権である。
これを英語では、「elected dictatorship (選挙された独裁性)」と呼んでいる。
つまり、王政は常に廃棄され、選挙によって成立した議会が独裁的権力をふるうという事である。
(↑↑↑ ※ 絵は、『クロムウェルとチャールズ1世』 ポール・ドラロッシュ 1831年)
この議会的独裁性の危険性が反省され、名誉革命によって王政復古が成り立ち、イギリスはバランスのとれた近代的立憲君主制の国となったのである。
それ以降も、王政の実質的な政治力は低下したので、イギリスにおいてはいつでも議会が独裁的な権力を振るう危険性が存在した。
これを最もよく認識していたのが、アメリカ建国の父祖(Founding Fathers)である。
それ故にアメリカは厳格な三権分立を導入して、クロムウェルの独裁、そして議会の独裁を許さないような体制を創った。
そもそも、イギリスの憲法は、不成文憲法と呼ばれる。
私流の解釈をするならば、成文と不成文(慣習)を組合わせた憲法体制である。
不成文の部分において、拡大解釈によって議会の独裁権が拡大する可能性も常に存在する。
それ故に、アメリカの建国の父祖達は、厳密なる成文憲法の制定に拘ったのである。
今日の民主党の小沢幹事長の立場は、ピューリタン革命後のクロムウェルの地位にも相当するかもしれない。
国会議員は確かに、国民によって選挙はされたものの、その権力が絶対ならば議会的独裁性がそこに成立するのである。
少なくとも今の日本はその危険性に直面している。
今晩の勉強会で、私の友人である在日経験の長いアメリカ人弁護士と話していたところ、彼が今日の民主党が「elected dictatorship (選挙された独裁性)」になるのではないか、と憂慮している事が分かった。
イギリスとアメリカの関係を少しでも深く理解していれば、了解出来ることだと思う。
アメリカ型デモクラシーが嫌いだからと言って、何でもイギリスのものを導入すれば良いという事でもなかろう。
イギリスには王様の首を切って、行なった、共和制革命があり、その革命への反省から今日の安定した立憲君主制が成立しているのである。
このような歴史的経緯は日本国民の少なくとも、政治家達の常識になって欲しい知識である。