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【鳩山さんが大好きな「友愛」政治のホント― 「友愛」と博愛と仁侠の関係について】
政治学講座でも、フランス革命の危険性について解説致しましたが、改めて「友愛」という言葉の意味を解説してみました。
鳩山由紀夫前首相が「友愛精神」を説く為に、全国遊説に乗り出しているようだ。
鳩山さんのいう「友愛」はフランス革命のスローガンである、「自由・平等・博愛」の「博愛」を言い換えたものらしい。
ところで、この「博愛」という日本語訳が大変な誤訳である。
フランス語の「Fraternite :フラテルニテ」は、「兄弟愛」であり、転じて、「他人同士なのに、兄弟のように仲よくすること」である。
言い換えれば、「義兄弟」もしくは「義兄弟の契り」である。
こなれた日本語で言えば、それを「仁侠道」と言っても間違いないであろう。
近年、フランス革命の暗黒面に光を当てる研究が注目されてきた。革命軍の独善的な理念に従わないフランスのヴァンデ地方の人々を、30万人も殺戮した「ヴァンデ戦争」などは、無視することのできないフランス革命の暗黒面である。
革命家達は、義兄弟の固い団結で閉鎖的な集団を作り、自らの理念に従わない人々を、博愛精神の欠片も見せずに虐殺したのであった。
フランス革命を、20世紀に現れたコミュニズムやファシズムなどの全体主義の起源であると断ずる歴史学者もいる。
「自由・平等・博愛」の美しいフランス革命神話を未だに信じているのは、おめでたい「ルーピー」である。
この点において鳩山さんは、首尾一貫しているのかもしれませんが、果たしてそれで良いのでしょうか・・・。
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鈴木さんは、数少ない日本のプロ・バスケットボール選手だった方で、実業団の熊谷組バスケットボール・チームで日本一になった時のメンバーです。スポーツ界で学んだ事をビジネスに生かす活動をされています。
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そういった子供たちの夢や希望を、「事業仕分け」しようというのが民主党政権です。
以上のような観点から、鈴木克彦さんに御話を伺いました。
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※ 5月27日に第一回目の札幌地検行きが決定しました。
時間・手続きの詳細等については現在、地検窓口と調整中です。
尚、先に提出の為の面談調整や、手続きのプロセスが必要になるとの事で、27日に地検に行き、もう一度、全部の書類を提出しに札幌地検に行く事になりそうです。
24日着までの「受付条件を満たした書類(判子忘れや記入漏れで返却し、再提出の着が間に合わなかった分につきましては第一回提出分から外させて頂いております。)」についての受付名簿を作成させて頂き、その書類を先に申請しに伺う事になりそうです。(引き続き、決定事項があり次第、報告させて頂きます。)
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※ 鳩撃ち猟まとめ @ Wiki http://www26.atwiki.jp/hatouchi/
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しばらくの間、休講をしてしまいましたが、藤井厳喜アカデミー「国民の為の政治学」第11講の再開となります。
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
※ 随時、12回の正規講義に加え、適宜、必要に応じ、より詳しい補足講義でフォローアップする事もあります。
※ 「今回、はじめて藤井厳喜アカデミーを知りました! 最初(ガイダンスも含む)から勉強したいです」という方は、このブログの『カテゴリー: 「藤井厳喜アカデミー」』をソートして頂ければ、最初から整理された一覧状態で学んで頂く事が容易だと思います。
全く、この講座を御存じない方に、ご紹介して頂く場合は、このアドレスを【藤井厳喜アカデミー・ブログ http://www.gemki-fujii.com/blog/cat67/ 】ご紹介頂けますと、分かりやすいかと思います。
「国民の為の政治学」全体のカリキュラムは以下に示す通りです。
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
今回のテーマは、「中央集権と地方分権」と言う、ある意味ではタイムリーなテーマです。
2010年の春、平成22年の春、日本ではいくつかの新党が生まれましたが、与野党問わず、「地域主権的道州制論」なる怪しげな主張が幅を利かせています。
この議論が如何にナンセンスなものであるかは、今回の講義を受講してもらえれば、平均的な中学生も十分に納得する事でしょう。
国家をバラバラに解体する思想と政策をもてはやすという事自体が、極めて異常であり、病理的ですらあります。
分断された国家は、容易に外敵によって侵略され、あるいは併呑されてしまう。
地域主権論を唱える政治家達の内実が、実は、売国奴であったとしたら、どうでしょう?
一部の人々は、単に情報操作され、善意からこの地域主権論を主張しているのかもしれません。
しかし、他の一群の人々は、明らかに意図的に確信的に、日本国を解体する為に地域主権論を主張し、これを現実に実行しようとしています。
多くの国民はまだこの事に気がついていません。
一人でも多くの国民に早く、この事実に目覚めて欲しいと思います。
その為には、一人でも多くの人々にこの第11講を見て頂きたいと強く強く、望んでいます。
1/7 【国民の為の政治学】第11講 地方分権と中央集権の関係[H22/522]
現在、日本で流行している「地域主権的道州制論」は、主権国家を解体する誤まった主張である。
誤まったという事には2つの意味がある。
第一は、それが国益を損なうという事である。
第二は、そもそも主権というものは、分割できない国家の権力を指しているのであり、「地域主権」という言葉自体が論理的矛盾である。
「地域主権的道州制論」は、要は、日本国を解体する思想であり、一見、新しいファッションは身にまとってはいるが、本質的には反日左翼的な日本解体論の1バリエーションに過ぎない。
少なくともこの制度の導入によって、日本国の一体性が損なわれ、国益が大きく傷つく事は、確かである。
この第1セクションでは、「主権」という言葉の英語の定義に逆のぼって解説を始めている。
また、近代において、主権と言う概念を生みだしたフランスのボダン(Jean Bodin)の理論についても言及している。
(Jean Bodin、1530年 - 1596年)
何故、国家の権力を不可分なものと定義付け、これを主権と呼んだのか?
ボダンが置かれた歴史状況と政治状況から、主権概念の誕生の真実を明らかにした。
2/7 【国民の為の政治学】第11講 地方分権と中央集権の関係[H22/522]
「主権」という概念は、近代国家の誕生と共に生まれた。
この初めに生まれた近代国家はヨーロッパにおいては、絶対主義王制という形をとった。
何故、絶対主義と言うかと言えば、それ以前の国家の形態が、「封建領主による連合」に過ぎなかったからである。
国家内に複数の権力が存在していた封建制を廃止し、権力を一元化する事によって、絶対主義王制は生まれ、これが即ち、近代国家の誕生となったのである。
封建主義との決別を宣言する為に、近代国家の権威と権力の単一性が強調されたが、それを象徴する概念が「主権」だったのである。
ヨーロッパにおける主権概念誕生のプロセスをこの第2セクションでも、解説している。
それでは、アメリカのような連邦制・フェデレーションはどのように成立しているのであろうか?
アメリカでは、州をステイトと呼んでいる。このステイトには、元来、国家の意味もある。
アメリカが誕生した時、それは13の独立した州の連合体に過ぎなかった。
もともと独立していた国家が連合して、新しい中央政府の主権を設立するところに、連邦政府が生まれ、アメリカ合衆国が成立したのである。
合衆国はこの意味からすれば、「合州国」と書くべきであろう。
ところが、アメリカにおいては、地域主権論や、州主権論などという、馬鹿な考えを言いだす人は一人もいない。
何故なら、独立していた州が、主体的に中央政府を構成する事によって、新しい国家主権を生みだした、というプロセスをアメリカ人誰もが知っているからである。
それ故に、アメリカ合衆国においては、強い州、強い州自治体と、強い連邦政府が併存して矛盾なく存在している。
3/7 【国民の為の政治学】第11講 地方分権と中央集権の関係[H22/522]
「地域主権的道州制」論は、形をかえた反天皇制革命論であり、共和制革命論でもある。
この議論によって想定されているそれぞれの道や州は、疑似共和制国家であり、それらの連合としてしか存在し得ない日本国においては、天皇と国民の間は、これらの疑似的共和制国家によって、分断される事になる。
つまり、天皇の下に日本国民が一つの国家を形成しているという日本国の形(国体)は決定的に失われる事になるのである。
ある人々は、地域主権的道州制という言葉を、主権という言葉の定義を忘れて用いている。
これは主権と言う概念の誤用である。
これに対して、他のより狡猾な一群の人々は、地域主権的道州制というアイデアを、確信犯的に用いて、日本の国の形を解体しようとしている。
いずれにせよ、私は地域主権的道州制論を唱える政治家を全く信用する事は出来ない。
4/7 【国民の為の政治学】第11講 地方分権と中央集権の関係[H22/522]
アメリカ独立革命ののちに、アメリカ人がどのように合衆国の連邦体制を生みだして行ったかを、探求する事によって、地方分権と中央集権の意義を新たな角度からとらえ直してみたい。
独立直後のアメリカでは、中央政府は必要ない、という考え方も極めて強力であった。
強い中央政府(連邦政府)が存在すれば、いつそれが国民を弾圧する強圧的な政府にならないとも限らない。
それ故に、中央政府を創らずに、13の州が緩やかに連携してゆくだけでよい、という意見にもかなりの説得力があった。
この時、強い連邦政府、即ち中央政府を作るべきである、と主張したのが通称・フェデラリストと呼ばれる人々である。
彼らはニューヨーク市の新聞に、強い連邦政府を作る必要を説いた論文を連載し、世論を大きく喚起した。
彼らの執筆した政治論文は、全体として「The Federalist Papers」と呼ばれ、アメリカ政治学の古典となっている。
5/7 【国民の為の政治学】第11講 地方分権と中央集権の関係[H22/522]
「フェデレーション(連邦制)」とはどのようなシステムであろうか?
再び、ODEの定義からこの事を、根本的に考えてみたい。
「フェデレーション」とは、元来、独立した政治的実体が、合意の下に新しい中央政府を生みだす事である。
フェデレーションより、緩い概念に「コンフェデレーション」がある。
アメリカの歴史では、このコンフェデレーションという言葉が2回登場する。
初めは、独立後、アメリカ連邦政府が形成されるまでの間、アメリカの国の形はコンフェデレーションと呼ばれた。
2回目は南北戦争の時、11の南部諸州をこの名で呼んだのである。
6/7 【国民の為の政治学】第11講 地方分権と中央集権の関係[H22/522]
地域主権なるおぞましい概念が、成立し得ない事は既に十分に立証した。
しかし、地方分権という考え方は、正統な概念である。
では、中央集権制と地方分権性のどちらがより優れた政治体制なのであろうか?
これには、一定の答えは無い。全ては状況次第である。
江戸時代の日本は、封建制度という極めて地方分権的な制度であった。
これを改革して、明治時代には、中央集権的な近代国家を形作った。
大東亜戦争の敗北後も、この中央集権優位の体制は長く継続して来た。
それゆえ、20年ほど前から、日本をもっと地方分権的に改革しようという声が湧きあがってきた。
その為、現在では地方分権が中央集権より優れた制度であると考えられがちである。
しかし、現在の日本人は、中央集権制の長所を見過ごして、その短所ばかりを強調しているきらいがある。
中央集権にも良いところは山ほどある。
全国一律の行政サービスを国民に供給する事が出来るのは、中央集権制の最大の長所である。
これに対して、地方分権制では、自治体の財政的独立を認めてしまうと、自治体間に極度な貧富の差が生じてしまう。
貧しい自治体はいつまでも貧しく、豊かな自治体は益々豊かになる、というような状況になってしまう。
日本人はそれで良いのだろうか?
さて、近代国家における、主権という言葉の意味を、中世ヨーロッパで起きた事件を実例として、より深く考察してみよう。
1077年、神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝が、ローマ法王に屈辱を受け、全面的に謝罪するという事件が起きている。
これを通称「カノッサの屈辱」という。
つまり、一国の王様よりも、上位の宗教的権威が存在したのが、封建時代という時代であった。
日本でも政治的権威とは、全く独立した宗教的権威が、一種、独立国のように存在していたのが、封建時代であった。
日本においては、このような封建制、つまり分権制を廃止し、強い中央集権国家をつくろうとしたのが、織田信長であった。
信長は単に他の封建諸侯と戦ったばかりではなく、本願寺や一向一揆といった、宗教勢力とも闘い、宗教団体が1国家内において治外法権的な権力をもつ事を禁止しようとしたのである。
信長こそは、明治維新の先駆者であった。
7/7 【国民の為の政治学】第11講 地方分権と中央集権の関係[H22/522]
このセクションが、第11講のまとめである。
「主権」と言うのは、国家を支配する至高の権威と定義づけられている。
という事は、主権の上位に存在する権威は存在しないという事になる。
これは、国家相互の間にも当てはまる関係である。
つまり、主権国家同士はお互いに平等の存在なのであって、主権国家を上位から統治する権威は存在しえないのである。
国家同士は、原理的に平等の存在として戦争をし、和平を講ずる資格がある。
つまり、戦争もまた国家に与えられた機能の1つなのである。
国家同士は平等であるがゆえに、戦争の善悪を論ずる事は原則的に出来ないのである。
各国家にとっては、国益の伸長こそが善である。
A国にとっては善である事が、敵対国のB国にとっては即ち、悪である。
それ故に、国際政治においては、絶対的な善悪は存在しないと考えるのが常識になっている。
以上のように主権概念からは、論理的に、国際政治の価値相対主義が導き出されてくる。
このような国際政治の現実においては、国家間には絶対的平和という事はあり得ず、総体的な秩序の安定こそがかろうじて望ましい目標となる。
この総体的な安定秩序をもたらす唯一の方法は、勢力均衡(バランス・オブ・パワー)である。
力という現実の総体的な均衡によってのみ、安定的な国際秩序は維持される事が出来るのである。
これもまた、「主権は至高の権威である」というテーゼから論理的にかつ必然的に導き出されてくる結論である。
日本においては、現在の国家体制が、国民主権なのか、天皇主権なのか、という議論が存在する。
結論から言えば、日本は伝統的に、天皇主権であり、かつ国民主権なのである。
今日の民主国家体制においては、この事は一層、明白である。
つまり、天皇主権なのか、国民主権なのかという2者択一の問いは全く意味をなさないのである。
天皇主権といっても、その天皇とは、歴史的に形成されて来た日本民族全体の象徴である。
天皇の主権は、歴史的有機体としての国民全体に帰属する主権でもある。
国民主権と言っても、その国民の歴史的統合の象徴が天皇である。
国民の主権を、国民の象徴として、またその代表者として保持する存在が天皇である。
天皇とは、歴史的に形成されて来た有機体としての日本国民全体の統合の象徴であるのだから、日本においては、「天皇主権」とは即ち「国民主権」の事なのである。
【イベントの御知らせ〈1〉名古屋での藤井厳喜OFF会】
〈1〉 5月25日名古屋での藤井厳喜OFF会
(※両方とも飛び込みOKです)
【1部】 25日、名古屋での仕事終了後17時頃から19時前まで、名古屋駅JRセントラルタワー13Fのスターバックス等あるテラス席に私、藤井が御茶しております。
オープンスペースなので一見さん歓迎!お気軽にお立ち寄り、お声掛けください!
【2部】
19時から21時は駅近くのカラオケ店で飲み放題軽食付プラン。
ビッグエコー名古屋太閤通口店の個室を借りてのOFF会です。
(※お子様連れの方も参加しやすい為、個室に致しました。カラオケ大会ではございません。)
料金は3千円(お子様は別途対応)。
申込みお問い合わせ等の連絡先は info.cfg.future@gmail.com か、なるべく、twitterで御知らせ下さい。(人数把握をしたい為です)
1部の御茶会、テラス席はフードコートのようなフリースペースなので、近くに立ち寄れそうな方は、ドンドン飛び込みOKで御気軽に声をかけてください。(ただしいつも混み合っている場所なので、その点だけご承知置きください。)
テラス席のところにはスタバ、スープストックトーキョー、ヴィドフランスがありますhttp://www.towersdining.com/#13F
あくまで気軽に交流をするのが目的です。
2部のカラオケ店は通常の小皿料理を2人で1品注文となりますので、事前に小腹に入れておくことをオススメします。
途中参加、一部どちらかの参加、両方ともOKです。
既に、ご家族での参加やお子様連れでの参加希望も頂いております。
愛知エリアの方々に、この機会に是非、御逢いさせて頂きたいと思います。
御気軽に、ご友人を誘い、参加して頂けます事、願っております。
【イベント第二弾・北海道篇 ― 札幌市内中心部で口蹄疫についての緊急講演!】
5月27日、午後4時から急遽、口蹄疫に関する件で、講演をさせて頂く事になりました。
緊急開催の為、会場等、詳細は、後ほど発表させて頂く事となります。
この問題は、特に畜産業・食品系産業の方には、1人でも多くの方に知って頂きたいと思っております。
1人でも多くの方に情報を伝える事が目的ですので、今回は、無料で緊急開催をさせて頂く事になりました。
北海道エリアで参加可能な方がいらっしゃいましたら、日時と企画趣旨について、是非、お知らせください。
急遽、突然ではありますが、札幌市内中心部での開催を検討し、会場予約にあたっています。
【皆様へお願い】
我々、日本国民が出来る宮崎県民への最大の励ましの手段の1つは、宮崎県産の農産物・畜産物をとにかく少しでも多く食べる事です。
牛肉・トリ肉・豚肉は勿論、果物や野菜も、今は出来るだけ、宮崎産のものを買おうではありませんか。
私も出来るだけ、心がけて、宮崎県産の食料を食べるようにしています。
これが、一般消費者が出来る、ささやかな、しかし確実な応援だと思います。
Twitterやブログをやっている人は、宮崎県産の食料を食べる時に、是非、その様子を大きな声で好評して宣伝して下さい!
その事が宮崎県の農家を大きく励ます事になります。
彼らの絶望感を救う事が出来ます。
民主党政権は頼りなくても、日本国中にこれだけ多くの関心を持ち、宮崎を助けたいと思っている事が具体的に伝わります。
その気持ちの動き、宮崎を救いたいという気持ちの伝達が、何よりも宮崎県の農民に大きな勇気を与える事が出来ます。
私は焼酎党ですが、今はもっぱら呑む機会があれば宮崎県産の芋焼酎を愛飲するよう心がけています。
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鳩猟、解禁!! 猟師さん&「鳩撃ち」広報部隊さんも募集中!
※ 現在、既に本日の午前中の時点で、DL数・4700件を超えました。 拡散ご協力、有難うございます。
【作戦名『鳩撃ち猟』続報2 猟師募集と実行手順について・応募署名PDF付】
※ 鳩撃ち告発状 DLページ(より、サーバ・ダウンがしにくい対策を行いました)
http://sites.google.com/site/kokuhatsuhatouti/
【鳩撃ち用猟告発状PDFファイルのミラー(DL用)+プリントアウト出来ない方対策】
※ 早速、大反響の為、1つのサーバにアクセス集中によるダウンの問合せが殺到いたしました。
以下、別サーバ保管のミラー版(※内容は全く一緒です)を貼らして頂きますので、メイン・サーバの回線エラー発生の折には、以下もお試し下さいませ。
ミラー保管庫 http://www1.axfc.net/uploader/Li/so/63871.pdf
【プリントアウトが自宅で出来ない方や、サーバ・アクセス集中でDL出来ない場合用】
※ コンビニのセブンイレブン(7-11)のネットプリント・サービスというものがあるようです。
7-11で、この予約番号を入力すると、有料ですが、告発状が、外出先からも印刷し入手できます。
予約番号 → 「 D25FAA8M 」
(※なお、プリントアウト時に、カラーか白黒を選択できます。)
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本日、公開の政治学講座は第10回目で、テーマは「政治家論」となっています。
※ 今回の講義では、危機管理論の教科書として執筆しました拙著『危機の指導者―検証・同時テロと大統領のリーダーシップ
』をもとに話しております。
但し、今回の講義では、普通、考えられるような政治的指導者に関する評伝的な論評(西郷さんは偉かった等々…)は、敢えて避けています。
第一に、政治家に、つまりリーダーに必要な資質とはどのようなものか、を論じています。
つまり、リーダーシップ論です。
第二に、リーダーシップの本質が、最も明らかになる「危機」における決断を取り上げます。
別の言い方をすれば、危機管理論でもあります。
第三に、新しい政治家をどのように育成していったらよいのか、について考えます。
これを英語では、「エリート・リクルートメント」と呼んでいます。
デモクラシー(民主国家)においては、世襲的な指導層が存在しません。
それ故に、なおさら、リーダーをどのように選抜し、育成するかは極めて重要な民主国家の課題です。
日本では、デモクラシーという言葉がリーダーシップを否定するように使われていますが、これは全くの誤りです。
民主国家もまた、国家である以上、指導する者(Leader)と指導される者(Follower)に分かれます。
世襲的な指導層がいない以上、如何に指導者を育て、これを教育するかは、国家の命運のかかった課題となります。
アメリカは民主社会で、誰もが平等なスタートラインに立つ事を建前としています。
それ故に、激しい競争が行われ、リーダー教育・エリート教育にも極めて熱心なのです。
「民主社会であるにも関わらず、エリート教育をする」のではなく、「民主社会であるが故に、エリート教育に力を入れる」のです。
日本においては、全く看過されている重要点であると思います。
最後に、「言論の自由」についても、私の俗論とは全く異なる見解を論じています。
では、以下の講義をご覧ください。
1/7 【国民の為の政治学】第10講政治家論:リーダーシップ論 [H22/4/16]
第10講目のテーマは、「政治家論」ですが、内容としては、リーダーシップ論と危機管理論の2つのテーマからこれを講義します。
個々の政治家に対する評価や、伝記的評論は、今回の講義からは敢えて、外しました。
最初のチャプターでは、政治家に必要な資質を検証しています。
政治家に最も必要な3つの条件は、1先見力、2決断力、3説得力の3つです。
「先見力」とは先ず、未来を予測する能力の事です。
「決断力」とは、国家が重要な岐点に差し掛かった時に、正しい方向を選びとる能力です。
「説得力」とは、その決断の内容を、国民の多くに知らせ、1つの方向にまとめる能力です。
先見力だけならば、それは学者の領域と言えます。
欧米においては、政治家の先見力を補う為に、公共政策の為の多くのシンクタンクが存在します。
日本においては、民間のシンクタンクが非常に脆弱な事が憂慮されます。
政治家に必要な資質を日本風に言い換えれば、政治家には2種類の人間が必要であり、それは「器量人」と「知恵者」であると言える事も出来ます。
「知恵者」とは、先見性があり、正しい判断を準備出来る者の事です。
それはまた、死んだ知識を大量に持っている知識人ではなく、常に事態を打開する生きた智恵を出せる人間の事でもあります。
器量人とは、大きな度量を持ち、知恵者を使って仕事をする指導者の事です。
正しい判断をし、それを多くの人々に説得する力を持った人間と言っても良いでしょう。
2/7 【国民の為の政治学】第10講 政治家論:危機管理論[H22/4/16]
政治と政治家の本質は、危機における対応によって、最も明らかとなる。
それ故に、政治家論において、敢えて「危機管理論」を取り上げる事にした。
危機の本質を明らかにするには、先ず、危機(Crisis)と危険(Risk)が異なったものである事を認識する必要がある。
危機とは、前例のない事態であり、危険とは、前例のある事態である。
危険(Risk)は前例がある出来事であるから、これに工学的・機械的に対応し、危険を管理する事が出来る。
これに必要な知識をイギリスの政治哲学者マイケル・オークショットに従って、「技術知」と名付けておこう。
これに対して、真の危機とは、前例のない非常事態であり、それ故に危機に対する対応は、マニュアル化する事が不可能である。
優れたリーダーの深い叡智によってのみ危機への対応は可能となる。
この叡智を、マイケル・オークショットは、「実践智」と呼んでいる。
リスク管理は、行政の行う事であり、本質的に言うならば、危機への対応こそ、政治の専有する分野である。
危機における決断こそ、一国の存亡を賭けた、政治の本質である。
しかし、危機に対処する為に必要な事は、実は事前の調査・準備を行う事により、潜在的な危機を管理できるリスクへと転換させる事なのである。
3/7 【国民の為の政治学】第10講 政治家論:危機管理論[H22/4/16]
【危機の三要素】とは何か?
それは、1. 死活的利益を犯す事件である事。
2.いつ起きるか分からない事件である事。
3.対処法が分からない事件である事。
以上の3つである。
つまり原理的に、危機を管理する事は出来ない事になる。
危機とはまさに、予知不可能な事態の事なのである。
3つの内の、どれか1つでも欠いていれば、それは真の危機ではない。
例えば、心臓病の持病を持つ人がいつ心不全に陥るか分からない不安を持っていたとしよう。
起きれば本人の生死にかかわるし、いつ起きるか分からない訳であるから、危機のはじめの2つの要素は満たしている状態である。
しかし、心不全に有効な薬を常時、携帯しているならば、その対処法が明らかなのだから、第3の条件は欠いている事になる。
であるからこの状態は真の危機とは、呼べない訳である。
また、首都圏を大地震が襲う危険があっても、もし地震予測の技術が進み、いつ地震が起きるかを数時間前に予測する事が出来るならば、それは危機とはならない。
国家の死活的利益に関わり、大地震に完璧に対処する術は存在しないが、いつ起きるかが分かっていれば、極めて有効に対応する事が出来る訳である。
数時間前に大地震の発生が予測できるならば、交通機関は全て停止させ、危険な地域から人を批難させ、火の用心を徹底させれば、地震に伴う火災の発生も防ぐ事が出来る。
いつ起きるかの予測が可能ならば、どんなに大きな災害も真の危機とはならなくて済む訳である。
4/7 【国民の為の政治学】第10講 政治家論:危機管理論[H22/4/16]
民主社会が順調に機能する為には、中間レベルにおけるリーダーシップ、つまりミドル・リーダーシップが重要である。
民主国家は、1人の優れた大統領や首相が存在しても、それだけでは巧く機能する訳ではない。
様々な制度や組織に支えられた政治社会の中間レベルにおけるリーダーシップが機能して初めて、国民一般の意見が吸い上げられ、TOPリーダーの意志が国民各層によく理解され、指導者と被指導者が中間リーダーシップを媒介として、それぞれの役割を果たす事が出来る。
中間リーダーシップにおいては、マスコミ・政党・自治体、更に企業・経済団体・労働組合等の組織が有効な役割を果たす事が期待されている。
つまり、一般国民の政治参加への欲求や利害の要求を巧く吸収し、これを国のTOPリーダーシップに媒介する働きを、これらの制度・機関が果たす事によって、民主政治は順調に機能するのである。
伝統的な社会においては、国の為政者の意志は、上意下達によって国民大衆に伝えられる。
中間リーダーシップは必要がない。
また、伝統社会が崩れ、民主的な中間リーダーシップが成立していない変革期の社会(大衆社会:多くの発展途上国で見られる)においては、中間リーダシップを支える制度・組織が発達していない。
それ故に、指導者と一般大衆が直接ぶつかり合う事態になってしまう。
一般大衆は、指導層に暴力的な反抗をし、指導層は一般大衆を扇動したり、鎮圧したりするという、行動パターンを取る。
この場合、国民大衆の政治への参加意欲を媒介する制度・組織が脆弱な為に、政治の運営が極めて不安定になってしまう。
5/7 【国民の為の政治学】第10講 政治家論:危機管理論 [H22/4/16]
リーダーシップ論の延長として、「制度化と参加」というパラダイムから、過渡期の政治秩序の在り様を考えてみたい。
これは、多くの発展途上国において生じる政治的不安定の原因を考えることにもなる。
従来の政治学では、参加(Participation)というのは、常に肯定的な要素とみなされてきた。
これに反論したのが、アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンであった。
彼は、制度化(Institutionalization)と制度を対概念で用いる事により、制度化のレベルを超えた過度な参加は、政治社会を不安定に陥れると主張した。
発展途上国においては、伝統的な社会の制度が崩れる一方、流動化した大衆が無秩序に参加を求め、参加の量が制度化の水準を大きく上回ってしまう場合が多い。
この場合、政治秩序は著しく不安定となり、その不安定さのゆえに、経済発展も妨げられる場合が多い。
ハンチントンの理論は、ある意味で、開発独裁を合理化する理論であった。
ハンチントンの理論で欠落しているのは、国家の二元性という視点である。
国家は単に、制度であるばかりでなく、その制度を支える徳(価値観)の共同体でもなければならない。
ハンチントンはこの「徳の共同体」即ち、精神共同体としての国家を完全に無視している。
参加そのものの量が問題なのではない。
「徳の共同体」がある限り、その基礎の上における参加は必ず、秩序と制度化を指向するものである。
「徳の共同体」を失った、やみくもな参加への衝動が、政治秩序を破壊するのである。
それ故に、単に上意下達的な制度化のレベルを上げる事によっては、参加の問題を解決する事は出来ない。
常に「徳の共同体」としての国家を建設する努力を伴った制度化が行われてこそ、参加を排除しない安定した秩序が構築されるのである。
6/7 【国民の為の政治学】第10講 政治家論:危機管理論[H22/4/16]
日本においては、優れた政治家を育成する社会のシステムが全く完備していない。
ここに日本政治の大きな問題点がある。
能力のある人材がいない訳ではない。
しかし、これらの人材を政治家として選抜し、育成する仕組みが存在しないのである。
明治以来、そして戦後社会においても、国会議員となる人材の供給源は、大きく分けて2つあった。
それは官僚と地方政治家である。
中央官庁のエリート達が政治家に転ずるパターンは明治時代から存在した。
第二次大戦後においては、大量の政治家が占領軍により追放された為、吉田茂首相は、多くの若手官僚を政治家に転向させ、これを時代のリーダーとして育成した。
官僚と並んで国会議員の1つの大きな供給源となってきたのが地方政治家である。
これは所謂、自民党内における「党人派」の人脈を形成してきた。
これと並んで、近年注目されるのが、これ以外の第三の人材の供給源である。
テレビ・タレントやスポーツ選手等、マスコミでの知名度のある人間が政治家に転身する場合が今日しばしば見受けられる。
また、日本においては、世襲的な名望家支配の伝統も未だに保たれている。
鳩山家や吉田家(麻生太郎)、細川家、安倍家、等の名門出身の政治家は、国会議員になるハードルも低く、また出世の階段も一般の政治家よりは速く駆け上がる事が出来る。
総じて言える事は、政治家としてのリーダーシップのある人間をリクルートし、これを教育、育成するルートが日本においては極めて貧弱であるという点である。
単に権力欲の旺盛なあまり優秀でない、そして使命感もない多くの政治家が存在するのはこの為である。
7/7 【国民の為の政治学】第10講 政治家論:暗殺とデモクラシー?[H22/4/16]
民主国家においては、言論の自由は極めて重要なものである。
しかし、その言論の自由とは、実は政敵を暗殺しかねないほどの情熱と使命感によって支えられているものなのである。
そこに言論の自由のアイロニーが存在する。
国家の重大政策において意見が異なれば、政敵を暗殺することこそが正しいという判断も愛国心の表現の1つである。
しかし、真に国を憂うるものが、その信念を貫くあまり、お互いに殺し合いをしていたのでは、逆に国益の為にはならない。
自らの命をも賭して、国益の為に尽力しようとする者同士が、命を無駄にしない為に、一発の銃弾を一票に変えることによって近代のデモクラシーは成立してきたのである。
英語では、これを「Bullet(弾丸)からBollot(投票)へ」と表現している。
言論の自由の根底には、お互いの命をやり取りしてまでも自らの主張を貫こうという政治的意思が存在するのである。
ここである1人の人間が「私はBallotを放棄するのでBulletを取り戻す」と宣言し、社会契約から外れるとすれば、彼の行動にはそれなりの正統性があると言わざるを得ないであろう。
アメリカのような契約精神に基づく民主国家においては、原理的に政治家の暗殺を否定する事が難しいのである。
ここにアメリカの悲劇も存在する。
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本日も、朝からミーティングや会合等があり、その後、神奈川県のセンター北駅での広報活動でした。
朝から暴風の影響で、NETの調子に影響が出たり、近くの電車のダイヤルが相当、乱れたようでしたが、皆さんは大丈夫だったでしょうか?
さて、本日のテーマは、「革命は何故、どのように起きるのだろうか?」です。
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※ 随時、12回の正規講義に加え、適宜、必要に応じ、より詳しい補足講義でフォローアップする事もあります。
※ 「今回、はじめて藤井厳喜アカデミーを知りました! 最初(ガイダンスも含む)から勉強したいです」という方は、このブログの『カテゴリー: 「藤井厳喜アカデミー」』をソートして頂ければ、最初から整理された一覧状態で学んで頂く事が容易だと思います。
全く、この講座を御存じない方に、ご紹介して頂く場合は、このアドレスを【藤井厳喜アカデミー・ブログ http://www.gemki-fujii.com/blog/cat67/ 】ご紹介頂けますと、分かりやすいかと思います。
「国民の為の政治学」全体のカリキュラムは以下に示す通りです。
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
今回は、革命という政治学の最もダイナミックなテーマを取り扱います。
通常、政治学の対象は、安定した国家内における政治現象ですが、革命というテーマを政治学が避けて通る事は出来ません。
革命に共通した現象は、既存の政治権力がその正統性を完全に失う事です。
正統性の喪失が先にあり、それが暴力行為を誘発すると考えられます。
しかし、革命が収束する時期においては、一度、失われた正統性は、必ずまた別の形で樹立されなければなりません。
そうでなければ国家は無政府状態のままに放置される事になるからです。
今回は、特に、マルクス主義的革命理論の不毛と日本的革命の論理という事について力をついてお話していますので、そこをよく学習して頂けると面白いと思います。
今回の授業をよく咀嚼してもらえれば、現在の民主党や社民党などが推し進めようとしている「家族解体法案」や子供手当の背後の思想が、ハッキリと見えてきます。
これらをシッカリと吸収し、いつでも地に足のついた、的確な理論武装や戦略立案が、自分の頭で自在に構築できるようになる事を願っています。
1/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
革命とは、暴力的争乱を伴って、国家の体制が全く変わってしまう事を意味する。
しかし、しばしば革命という言葉はこれよりも広い意味に用いられる事がある。
例えば、アメリカでは、独立戦争の事をアメリカン・レボリューションと呼んでいる。
つまり、アメリカ革命である。また、1917年にロシアで起きた出来事は、首都とその周辺で起きた出来事だけに注目すれば、それは革命というよりは、クーデター(暴力による国家の転覆)と呼んだ方が正確であろう。
しかし、その後、ソ連共産党が国家全体を革命的に変化させた事は歴史の事実である。
イギリスのピューリタン革命や、1789年のフランス革命や、明治維新は最も徹底的な革命の実例である。
また、近年、我々はソ連邦の崩壊に伴って、ソ連のみならず、東ヨーロッパ諸国も共産主義独裁を否定して、自由な民主国家を打ち立てるという革命を目撃している。
ロシアや東ヨーロッパにおけるこれらの革命は、マルクス主義では全く説明できない出来事であり、共産主義独裁がいつかは必ず自由を求める民衆によって、打ち倒されるという良き実例となっている。
2/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
マルクス主義を含む、直線的な「進歩史観」では、フランス革命を非常に高く評価している。
これが日本の義務教育における歴史教育の基本線の1つになっている。
ところが、フランス革命を詳しく検討してみると、それはフランス国民にとってのとんでもない悲劇であり、大災厄であり、とても称賛するような歴史的出来事ではなかった事が分かる。
フランス革命の直前には、啓蒙主義が全盛を極めた。
啓蒙主義は、人間の理性に対する多大な信頼と、楽観主義をその神髄としている。
理性に基く合理的な思考で、人間は社会のあらゆる問題を解決する事が出来る―という人間理性への傲慢なまでの信頼が、啓蒙主義時代を支配した。
それでは、啓蒙主義の思想的影響力のもとに起きたフランス革命が、理性的・合理的なものかと言えば、実情は全くその逆であった。
人間の最も非合理的な、非理性的な側面が、社会を支配し、フランスは連続する流血の惨事に見舞われ、社会秩序は徹底的に混乱し、失われた。
理性への過大な信仰が、結果として最も非理性的な現実を産出したのである。
フランス革命においては、超越的なキリスト教的神が否定される一方、抽象的な理性信仰が頂点を極め、これが一種のカルトとして一時的にしろフランス社会を支配した。
理性の信仰者が、理性信仰を拒絶するものを、徹底的に非理性的に虐殺し、弾圧するという、とんでもない逆説的な状況が現実となったのである。
絶対的に正しい信仰を手に入れた、と信ずる者は、これを受け入れない者を、徹底的に排除する。これが、ドグマ主義やファナティシズム(狂信熱狂)の繰り返されるパターンである。
フランス革命は、こういった人間の愚行と残虐の最もよき実例の宝庫である。
3/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
フランス革命は、1789年から約10年間、フランスを徹底的な無秩序と混乱に陥れた後、1799年のナポレオンの独裁的権力の樹立をもって終結する。
ルイ王朝の絶対王政を破壊した革命は、より民主的な柔軟な政治体制を生む事は無く、新たな独裁政権の成立を持って終結したのである。
マルクス主義革命理論のキリスト教との類似性を指摘したのはイギリスの哲学者バートランド・ラッセルであった。
彼は、ユダヤ教・キリスト教的な歴史観・終末観と、マルクス主義者が主張する革命理論の間には、極めて類似した論理構成がある事を見抜いていた。
マルクス主義の革命は、いくつかの国家において、現実となった。
ここにおいても、マルクス主義革命が生み出したものは、独裁的硬直的な権力を打倒して後の、より民主的で柔軟な政治体制ではなく、新たな独裁体制であった。
マルクス主義革命は、理論においても現実においても、新たな独裁権力(プロレタリアート独裁・共産党独裁)を生みだす為の革命である。
1991年のソ連邦崩壊に相前後して起きたロシアと東ヨーロッパの革命は、マルクス主義によって成立した独裁権力を打ち倒す、真の民主化革命であった。
4/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
【マルクス主義革命理論の破綻】
マルクス主義革命理論は、完全に誤まったものである事が、今日、完全に証明されている。
そもそもマルクス主義革命は、先進国においては起こらなかった。
この点において、マルクスの予言は完全に外れたのである。
先進国においては、穏健な非マルクス主義的社会主義の考え方が広まり、労働者の人権を重んじる方向に社会は改革されていった。
経済学的に見ても、資本主義の構造的な欠陥である、供給過剰を正す為に、勤労者階級一般の需要を拡大しようという動きが、現実の政策を動かした。
これは、ケインズ主義の名のもとで呼ばれる事もあり、また修正資本主義という呼び方もされている。
資本主義先進国においては、一般勤労者の需要が拡大し、中産階級が増え、これによって「供給過剰と需要過少から恐慌に陥る」という資本主義の構造的欠陥を、解決する事が出来たのである。
一部のマルクス主義者は、寧ろ、南北関係(先進資本主義国と低開発国との関係)において、マルクス主義理論の応用を試みた。
つまり、先進資本主義国(北)が低開発国(南)を構造的に搾取し、低開発国の国民が半永久的に貧困であり続けるという批難を行ったのである。
ところが、南北間マルクス主義モデルも、1970年代以来、現実性を失い、特に1991年のソ連邦崩壊以後は、このような主張も信頼性を喪失して来た。
低開発諸国の中から、既存の資本主義経済の枠内で、工業化を行い、輸出を伸ばし、国民の所得を増大させる事に成功した国々が生まれてきたからである。
皮肉な事に、今や、シナやロシアというかつての共産主義大国も又、世界の資本主義的枠組みの中での経済発展を実現しつつある。
5/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
古典的なマルクス革命理論は、今日完全に破綻している。
これに対して、文化マルクス主義とでも言うべき革命理論が、先進国では猛威をふるっている。
これは、直接の政治闘争や経済闘争によって、革命を実現するのではなく、長期的に家族や社会の伝統的道徳を破壊する事によって、マルクス主義的唯物論的革命を達成しようという方法論である。
このイデオロギーによれば、家族こそは、階級社会を支える根源的な単位であり、家族を破壊する事こそが、伝統的道徳観を破壊し、ついに階級社会や国家そのものを解体する事に繋がる、という。
このような虚妄のイデオロギーに基づいて、現在の日本における「家族解体法案(選択的夫婦別姓など)」が提出されているのである。
また、子供手当法案も、その基本になる考えは「家族が子供を育てる」のではなく「社会が子供を育てる」という考え方であり、そこに文化マルクス主義のイデオロギーが、確実に埋め込まれているのである。
6/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
【ルサンチマンについて】
それではそもそも、文化マルクス主義などのイデオロギーに後押しされて、日本社会を解体しようという人々は、何故そのような動機を持つのだろうか?
一言でいえば、ルサンチマン(怨念、恨み、特に弱者が強者に対して抱く憎悪感)という事であろう。
それはまた、劣等感の裏返しとしての復讐心とも言いかえる事が出来るであろう。
社会の少数者が、多数者に対して抱く劣等感や、被疎外感などが、不健全な形で内向し、憎悪心に転じたものがこのルサンチマン感情である。
現在の家族解体論者や、国家解体論者の最も基本的な行動の動機(モチベーション)は、このルサンチマン以外の何ものでもない。
しかし、日本社会は伝統的に本来、同性愛者などの少数者に対しても、常に寛容であり続けて来た。
これが、同性愛者を完全に宗教的異端とみなしてきたキリスト教社会等とは根本的に異なるところである。
このような伝統的な日本社会の柔軟な文化の下では、少数者は必ずしも声高に人権を主張しなくても、その存在を許されている。
彼らのルサンチマンを扇動しているところに、今日の反日主義者の最も狡猾な戦略がある。
7/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
日本における革命を考える時、最も重要なのは、日本の政治文化の二重構造に気がつく事である。
天皇は、聖なる次元に属し、民族の司祭としての権威を持ち、日本史を貫いて常に権力の正統性を担保する存在であり続けて来た。
俗の次元に属する権力者は、(それが摂政・関白であれ、将軍であれ、内閣総理大臣であれ)現実の政治権力を操るが、常にその地位を天皇から賜り、その権力の正統性を天皇に依存して来た。
これが日本における政治文化の二重構造である。
天皇は、日本民族全体の代表者として君臨し、現実の行政権力を時の最高権力者にゆだね、権力者はその委任に応え、国民の民政の充実を図る。というのが本来あるべき日本政治の姿である。
権力の正統性の根源が、常に天皇にあるという点については、皇国史観は捏造物ではなく、日本の歴史の現実そのものであり続けて来た。
8/8 【国民の為の政治学】第8講革命は何故、起きるのだろうか??[H22/4/2]
このような聖俗の二重構造をもつ日本の政治文化においては、革命(徹底した国家の改造)はどのように成し遂げられるのであろうか。
天皇の正統性という権威を頂いた革命のみが、日本における唯一の革命の形である。
これを「錦旗革命」と言い換えてもよいだろう。
時の政権が、あまりに天皇の本意から外れて、暴政を行ない、あるいは無能に陥った場合、本来の国の形に戻す為に、天皇の権威のもとに時の権力者は征伐され、体制は確信されるのである。
西洋のキリスト教国の革命を支えた考え方に、「神の自然法」という思想がある。
自然法とは、紙に書かれた法律ではないが、世界中の時とところとを超越して、有効であるような普遍的な法の事である。
謂わば、神が設定したとしか言いようのない普遍的な法という意味である。
西洋においては、時の権力者が、この自然法に背いた場合、人民は革命を起こして、神の定めたもうた自然法を復活させる事が出来る。
これこそが、あるべき革命である、とキリスト教徒は考える。
日本においては、この用語を用いるならば、天皇こそは、目に見える自然法なのである。
国民全体の安寧を祈る天皇の本意に反する権力者は、国民によって更迭されなければならない。
これが日本的革命の論理である。
(※詳しくは、『「国家」なき国ニッポン』を参照)
【お知らせ】
また、4月2,3,4日(金から日)は、神奈川県の横浜センター北や南エリアで、街頭宣伝活動を行う予定です。
平成22年4月2日(金) 18時から20時 「センター北」駅
平成22年4月3日(土) 13時から15時 「センター南」駅
平成22年4月4日(日) 13時から15時 「センター北」駅
平成22年4月7日(水) 18時から20時 「センター南」駅
場所: 横浜市営地下鉄 「センター北」駅、「センター南」駅 遊歩道にて。
ご連絡先: 頑張れ日本!全国行動委員会 TEL 03-6419-3900
※ 案内チラシはこちら → http://www.ch-sakura.jp/sakura/protestactivities0402-07yokohama_flyer.pdf
【お願い!!!! 全力拡散にご協力を!】
既にブログでも取り上げました、「絶叫!おQ層」の方々にも早速、絶賛!大好評!という「子ども手当の裏に隠された驚きの事実」チラシです。
他にも、数枚の回覧をさせて頂いたようですが、これが圧倒的に反応率、絶大!! 超HIT!
※ダウンロードはコチラから→ http://loda.jp/chirasihokanko/?id=253
既に、FAXやメールや印刷チラシのコピー等々を通じて、まわっているそうです。(驚くほど、凄い!)
もう、これは快挙としか言いようの無い大HIT!
是非、此方をダウンロードし、拡散にご協力くださいませ。
これは、全力!!で、いや、本気で至急、少しでも速く全力で大拡散をお願いします!!
【ご報告&発表! (^・x・^) じゃじゃーん! (^・x・^) 】
「ネコウヨ」バナーが出来ました。ヽ(^。^)丿
「The Cat Is Right !!」 猫はいつも右(right)であり、かつ正しい(right)!?
↑↑ 私の友人のカリスマ・フードコンサルタントの松本和彦先生がデザインし、創ってくださったものです。
(※ 松本さんの事は、「ドンと来い!大恐慌 (ジョルダンブックス)
」の特別対談にもご登場頂いたり、最近も映像での対談をして頂きましたのでご存知ですよね。)
こちらはTwitterページ用の「ネコウヨ」バナーです。
こちらは、私のTwitterページ「 https://twitter.com/GemkiFujii 」をリンク願えればと思います。
★ ブログ用のミニ・サイズは此方。
★ Twitter用の正方形タイプは此方。
是非、此方もリンク用バナーにご活用頂ければと思います。
※ 現在、まだ他のサイズ等も、作成頂いているらしいです。(感謝)
是非、そんな楽しい「ネコウヨ支持」とおっしゃっていただける方は、是非、リンク用にぺたっとご活用ください。
※ 「ネコウヨ」ってニャンだ?と思われる方は、『ネコウヨ誕生秘話』を詳細にブログで解説下さいました、ネコウヨ仲間さんのブログをご覧下さい。(http://2chatnoir.blog115.fc2.com/blog-entry-134.html)
※ 私への御連絡については、以下のアドレスにご連絡を頂ければ、チェックが遅れる事もございますが、必ず情報は全て拝読しておりますので、宜しくお願い申し上げます。
(ここのところ、メールの量が連日、倍々増状態となり、更に外での活動が増え続けている為、全てのメールに個別返信が厳しい場合があります。状況、ご理解頂ければと願います。← それでも全て拝読は必ずさせて頂いております。)
藤井厳喜へのメッセージ、講演や仕事等の依頼も、以下アドレスまでお願いいたします。
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★ 【 Cambridge Forcust Group of Japan.Co 藤井厳喜チャンネル】
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荒らし防止の為にも、映像をご覧になった後の、「★印での評価のご協力」を願えますと助かります。
【藤井厳喜Twitterサイト】 連日、《575で》呟き中!! 時事川柳・狂歌等。
https://twitter.com/GemkiFujii
いつも沢山のフォロー、有難うございます。
(日夜、Twitterならではの活動のリアルタイム実況中継や裏話w等もしています。
私が今日・どこで何に参加しているか?今、何を考えているか?、ご興味の方は是非、御気軽にご参加「フォロー」ください。)
本日は、チャンネル桜・キャスターの日。
朝からチャンネル桜に行き、収録をしてまいりました。(本日、夜、放映)
収録後、ミーティングがあり、その後、神奈川県県民センターで、5時半から講演会。
その為、本日の政治学講座は、少し早目の時間に映像を公開し、UPさせて頂きました。
藤井厳喜アカデミーの政治学講座もいよいよ第6講配信まで進んでまいりました。
さて、今回のテーマは、「政党の役割とは何だろう?」です。
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※ 「今回、はじめて藤井厳喜アカデミーを知りました! 最初(ガイダンスも含む)から勉強したいです」という方は、このブログの『カテゴリー: 「藤井厳喜アカデミー」』をソートして頂ければ、最初から整理された一覧状態で学んで頂く事が容易だと思います。
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今回のテーマは、政党の果たすべき役割です。
19世紀から、先進国で誕生してきたマス・デモクラシー(大衆の参加による民主政治)においては、政党の果たす役割は決定的に重要です。
政党が国民の要求や利益を吸い上げ(集約し)、整合的な政策をとることなしには、マス・デモクラシーにおける国家統治は巧く機能しません。
政党は、国家制度の一部ではなく、あくまでも私的な存在ですが、同時にマス・デモクラシーに不可欠な、公的な役割を果たしています。
政党は、当然の事ながら複数、存在する事により、デモクラシーを機能させます。
政党には、国家統治という観点から見た場合、肯定的な役割と否定的な役割の二つがあります。
肯定的な役割とは、前述したように、政党を通じて、国民がより機能的に国家統治に参加できる事です。
否定的な役割とは、複数の価値観の異なる政党が存在する事により、国家を分裂させる危険性が常に存在します。
政党は、英語では「Political Party」です。
この「Party」の意味を考えると、肯定否定の二つの意味が含まれている事が分かります。
Partyという言葉の意味には、人が集まる「人の集合体」という意味があります。
つまり宴会なども「Party」ですし、山登りのグループも、Partyと呼ばれます。
同時にPartyはPART(部分)という言葉と関係しており、全体の一部分に過ぎません。
人の集まりであるPartyは、国家から見ればその一部分にすぎない訳です。
しかし、このPartyに参加する事により、人は国家統治のプロセスに、Participate し、自分のPart(役割)を果たし、Take Part in する事が出来るのです。
1/7 【国民の為の政治学】第6講 政党の役割とは何だろう??[H22/3/19]
日本人が理想形としているような二大政党制の存在は、歴史的にも地域的にも寧ろ、例外 的な存在といえるかもしれない。
一般に、イギリスやアメリカは、典型的な二大政党制といわれているが、現在イギリスに は3つの主要政党が存在する。
アメリカでも、民主党一党支配の時代が1932年から6 8年まで続いていた。
アメリカ南部は、南北戦争の後から100年の間、ほぼ民主党の一 党支配であった。
2/7 【国民の為の政治学】第6講 政党の役割とは何だろう??[H22/3/19]
今日のマス・デモクラシー(大衆民主政治)において、政党が果たす役割は極めて重大である。
政党の中心的役割は、社会の様々な集団の利益を集約して、それを整合性のある政策体系に仕立てあげることである。
この機能を「政党の利益集約機能」と呼んでいる。
これに対して、圧力団体(利益団体) は、それぞれの利益をまとめて政府や政党に直接、これを要求していけばよい。
これを「 利益表出機能」と呼んでいる。
圧力団体が、利益表出機能を果たし、その明確化された利益を、政党が集約する事によっ て、政党は国家統治の重要な中間機構として作用する事が出来る。
3/7 【国民の為の政治学】第6講 政党の役割とは何だろう??[H22/3/19]
大衆デモクラシーの時代において、利益団体や政党は、国民が政治に参加する為の、媒介機構として重要な役割を果たしている。
国民は、選挙において一票を投じる事が出来るが、それだけでは十分な政治参加をしてい るとは言い難い。
利益団体に関わる事によって、自らの主に経済的利益を明確化し、この 利益団体を通じて政党に様々な圧力をかける事が出来る。
そして、政党の政策に影響力を 与える事によって、間接的に国家の政策に影響力を行使する事が出来る。
国家の統治機構と国民の間を繋ぐ、中間機構として、政党は重要な役割を果たしている。
それは国民の政治参加の為に欠かすことのできない手段(媒体)を提供している。
4/7 【国民の為の政治学】第6講 政党の役割とは何だろう??[H22/3/19]
政党には、その思想傾向から言って、大きく分けて2つのタイプが存在する。
1つは保守主義政党である。もう1つは進歩主義政党である。
政策分野を3つに分けて考えると、こ の2つの政党の政策の違いをハッキリと把握する事が出来る。
国防外交政策においては、 保守主義政党はタカ派的であり、進歩主義政党はハト派的である。
経済政策においては、保守主義政党は、自由経済重視派であり、経済行動での自己責任を 重視する。
逆に進歩主義政党は、福祉政策重視であり、企業行動の自由を制約しても、福 祉政策の充実を重視する。
文化教育政策においては、保守主義政党は当然、伝統文化を重視する立場である。
進歩主 義政党は、伝統を抑圧的なものと捉え、それからの個人の自由の開放を重視する。
5/7 【国民の為の政治学】第6講 政党の役割とは何だろう??[H22/3/19]
アメリカの政治学者JAMES・Q・WILSONは、政策形成を、そのコスト(費用) とベネフィット(利益)の広さと狭さから、4つのパターンに類型化している。
1. 多数派政治:知覚されるコストが国民の間に広く分布し、かつ知覚されるベネフィットも 広く分布している場合、これを多数派政治と呼んでいる。
例えば、外交国防政策や、社会保障政策などは概ねこのパターンである。
2. クライアント政治: これは、国民全体のコストによって、国民の一部(利益団体)がベネフィットを被るような政策形成である。
例えば、一部の特定の農産物を保護する為に、国が高い税金を競争相 手の輸入品にかけるような場合がこれである。
3. 起業家的政治: このネーミングが適当であるとは思われないが、国民全体に利益をもたらすような政策を、一部の国民が負担してこれを実現しようとする場合がこのパターンである。
例えば今、2010年3月現在、外国人参政権法案阻止の為に、ボランティアの国民が立ち上って運動をしている。
これらの人々は、自分達に対する直接の利益の為ではなく、国民全体の幅広い利益の為に、自分達がコストを負担して運動をしているのである。
こういった形の政治、もしくくは政策形成を、起業家的政治とよぶ。
4. 利益団体政治: これは、コストもベネフィットも、国民全体は関係がなく、一部の利益団体同士のゼロサムゲームになるような場合である。
例えば、ある業界において、企業団体と労働組合が対決しているような場合が典型的である。
労働組合に有利な最低賃金等の法律を作れば、そのベネフィットは当然、労働組合が手にするが、そのコストは企業団体が負担する事になる。
大体の政策形成は以上、4つのパターンに分類して考える事が出来る。
6/7 【国民の為の政治学】第6講 政党の役割とは何だろう??[H22/3/19]
例えば、4つの政策パターンについて、更に解説する。
外交政策は、一般に多数派政治のカテゴリーに入る。しかし例外もある。
例えばアメリカ外交においては、様々な移民グループが、自らの出身国に有利なようにアメリカ外交を動 かそうとする。
例えば、ユダヤ系アメリカ人はアメリカの中東外交をイスラエル寄りにしようと努力するし、アラブ系アメリカ人は、アメリカ外交をアラブ寄りにしようと働きかける。
このような観点から見れば、この政策決定は、利益団体政治のカテゴリーに入る。
現在の日本における外国人参政権問題は、これを推進する民主党の側から見れば、典型的 なクライアント政治であろう。在日韓国人を中心とする新有権者という「クライアント」を獲得する為に、国民全体にコストの負担を求めている訳である。
これに反対する運動は、前項でも取り上げたように、起業家的政治のカテゴリーに入る。
国民全体の利益を守る為に、草の根の運動家がコストを負担して運動を展開しているのである。このように、同じ政策課題であっても、立場とモノの見方によって、分類の仕方が異なってくる。
7/7 【国民の為の政治学】第6講 政党の役割とは何だろう??[H22/3/19]
政党の役割そのものとは直接関係ないが、政策決定のパターンと関連して、一般的な「決定作成(ディシジョン・メーキング)」の分析もここで提示しておきたい。
決定作成は、典型的には以下の2つのパターンに分類されている。
第1は、単一主体モデルである。
これは国家や1つの組織の為に、ごく少数の人間が、最終的にはTOPリーダー1人が行なう決定作成である。
決定内容は、国家もしくは組織の死活的利益に関わる場合で、決定に使える時間は極めて短い。時間の少なさが決定作成に参加するものの数を少数に確定する。
第2の決定作成のパターンは政治過程モデルである。
ここにおいては、一人のリーダーが 全体の利益の為に、決定を行なうのではなく、様々な集団が、それぞれの集団の利益を代 表して、政治交渉に参加し、決定は妥協の産物として行なわれる。
決定に使える時間は極 めて長く、国家もしくは組織の死活的利益には関わらない課題が、その対象となるのが普通である。
平時における国家予算の決定などは、この政治過程モデルの典型的なものである。
詳しくは、『危機の指導者―検証・同時テロと大統領のリーダーシップ
』P165参照
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本日の講義は、藤井厳喜アカデミー「国民の為の政治学」講座、第1回「デモクラシー(民主政治)とは何だろう?」(既に2月12日配信済)のより詳しい補足解説版として、お送りさせて頂くものとなります。
「民主政治とは何か」「国家とは何か」を、考えるヒントをこの補講の中で、更に詳しく解説しています。
実は、民主国家の参政権と国防の義務は表裏一体のものなのです。
この事が、分かると、外国人参政権なるものが、それが地方参政権であれ、全く論ずるに値しないナンセンスなものである事が即、理解できます。
それは既に、古代アテネの民主政治においてそうであり、近代のデモクラシーにおいても当然、その原則は貫かれているのです。
1/3【国民の為の政治学】第1講特別補足篇「国家とは何か?」 [H22/2/14]
政治一般を、論ずる時に「正統性(Legetimacy)」と「効率性(Effectiveness)」という二つの概念を対にして用いる。
1つの国家形態なり、法律なり、政策なりが「良い」か「悪い」かを判断する時に、この対概念が用いられる。
「良い政策」とは、正統性もあり、効率性もあるような政策の事である。
それでは、我が国の現行憲法は、この視点からどのように評価されるのだろうか?
2/3【国民の為の政治学】第1講特別補足篇「国家とは何か?」 ?[H22/2/14]
3/3【国民の為の政治学】第1講特別補足篇「国家とは何か?」 ?[H22/2/14]
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
※ このように、随時、12回の正規講義に加え、適宜、必要に応じ、より詳しい補足講義でフォローアップも検討しています。
「国民の為の政治学」全体のカリキュラムは以下に示す通りです。
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
そして、次回・第2回目の政治学講座は、2月19日(金)の夜です。
「第2講 2月19日 国内政治と国際政治の違いとは何だろう?」もお楽しみに!
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《藤井厳喜より、2・14の感謝メッセージ》
本日は、バレンタイン・デイの応援レター、激励のお便り等を沢山頂き、有難うございました。
今までもズット、かたい本を書いてきたので、女性読者からの御意見やご感想をこんなに沢山頂いたのは初めてです。これもブログ等、NET効果でしょうか。
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政治学講座の第1講は、「デモクラシーとは何か?」を、解明する事である。
我々はあまりに安易に民主主義、民主主義と言い過ぎているのではないか。
民主主義が良いとか悪いとかいう前に、私はそもそも、民主主義なるものは元来、存在しないものであると考えている。
英語のデモクラシーを民主主義と訳したのは明らかな誤訳である。
先ず、その事を明確にしておきたい。
それでは、デモクラシーとはどのようなものなのか、言葉の正確な定義から始めようではないか。
簡単明瞭な定義なくして、正確な認識を得る事は出来ない。
学問の第一歩は、明瞭な定義から始まる。
明確な概念(コンセプト)を、使う事によって我々は明確な思考をする事が出来る。
全てが曖昧な状況の中から、明快な認識を導きだす事が学問の役割である。
明快に考える事が出来なければ、明快に行動する事は出来ない。
私が講義するところは一見、抽象的で概念的な事だと思うが、実はこれが最も明快な具体的な行動の基礎となってゆくのである。
人間は、頭脳によってしか行動する事が出来ない。
曖昧な認識は破綻した行動を生みだす。
明快な認識は、明快な行動となって表れ、希望する結果と結びついてゆく。
曖昧さを排し、明快さを求める事は、人間が最も深いところで欲求する事でもある。
概念的(コンセプチュアル)である事が実は、最も現実的である事に人々は気付くであろう。
「抽象的な事が実は、最も具体的である」といったヘーゲルは、存外正しかったのである。
やや、ペダンティックな序説で恐縮。
以下の講義を、シッカリご覧頂きたい。
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
※ 今回の第1講のフォローアップ・特別版は2月14日(日)週末に約30分程の講義を配信予定です。
このように、随時、12回の正規講義に加え、適宜、必要に応じ、より詳しい補足講義でフォローアップも検討しています。
↑ 参考文献として、ご紹介いたしました書籍『教科書では教えない戦後民主主義の幻想―戦後体制の呪縛から脱出せよ
』です。
尚、この第1講「デモクラシー(民主政治)って何だろう?」の更に補足的な特別講義が、番外編として2月14日(日)、週末に公開されます。
是非、此方も合わせて受講頂ければと思います。
このように、全12回の正規講義を柱に、適宜、そのより詳しいフォローアップも検討していきたいと考えています。
「国民の為の政治学」全体のカリキュラムは以下に示す通りです。
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
そして、次回・第2回目の政治学講座は、2月19日(金)の夜です。
「第2講 2月19日 国内政治と国際政治の違いとは何だろう?」もお楽しみに!
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【お知らせ; いよいよ明日! 東京―2・13中国の「台湾併呑」阻止!日台共闘決起集会】
※ 私もこの日は、2ヶ国語でのスピーチを行います!是非、ご参加を!
台湾併呑のため、すでに無制限戦争を遂行しているChina。そしてこの生命線の島の危機に無為無策なのが日本だ。中国は軍事と言う物理的手段とともに、情報戦等々の非物理的手段をも行使している。
例えば併呑を正当化するため、「日本の中共への台湾返還」を以って「一つのシナ」を宣伝し、国際世論の反対を抑え込む「法律戦」も有効なるその一環。これに対して日本政府は、昨年の斉藤駐台代表事件で見られた如く、「返還はない」との法的事実(台湾の地位未確定論)を、シナを恐れて敢えて表明できずにいる。
従って国民一般も「一つの中国」の束縛からいつまでも脱却できないままだ。これで台湾有事の際、果たして日本は日米同盟の一員として戦うことができるのか。
日本に対するシナの軍事的「脅威」は、「台湾」から襲来する。しかし「台湾」は同時にまたシナ共産党政権の「アキレス腱」でもあるのである。
そこで無制限戦争に対抗する国民反中運動を強化、拡大すべく、以下の要領で日台共闘の決起集会を開催する。ふるって参加を!
【日時】2月13日(土)午後6時から8時半
【場所】文京区民センター3Fホール(地下鉄「春日駅」「後楽園駅」スグ。文京シビック斜向かい)
【講演】
西村真吾氏(前衆議院議員)「日台同盟がアジアの未来を拓く」
藤井厳喜氏(国際問題アナリスト)「東アジアの動乱と無制限戦争の時代」
水島 総氏(日本文化チャンネル桜代表)「進行する中共の対日本・台湾情報工作」
永山英樹氏(台湾研究フォーラム会長)「中共の宣伝戦を破る『台湾の地位未確定論』」
【参加費】1000円
【主催】日本李登輝友の会、メルマガ「台湾の声」、台湾研究フォーラム、台湾独立建国聯盟日本本部、在日台湾同郷会
【問合せ】日本李登輝友の会 03-3868-2111 info@ritouki.jp
■2月28日(日)には毎年恒例の「2・28台湾防衛デモ」を東京・大阪で実施し、台湾防衛、三民族解放を訴える計画。
★ 【 Cambridge Forcust Group of Japan.Co 藤井厳喜チャンネル】
http://www.youtube.com/user/zingrace1213 (登録自由)
【藤井厳喜Twitterサイト】 とうとう開始しました!
https://twitter.com/GemkiFujii
『藤井厳喜アカデミー』の開講
今日からいよいよ、満を持して、藤井厳喜アカデミーを開講致します。
実は、私の周りに、若い人を集めて個人的に講義をする「藤井塾」の活動はアメリカから帰国した直後からコツコツと月1回のペースで続けてきました。
これが諸般の事情により、しばらく中断していたのですが、今回、その復活という意味も含めて、体系的な政治学入門講座をインターネット上で開講することに致しました。
私は過去、いくつかの日本の大学で、一般教養の政治学という科目を担当してきました。
普通、一般教養の政治学は、非常につまらない内容のものが多いのですが、私は民主国家・日本の国民がよりよく政治参加する為の知恵を伝授したいというつもりでこの科目を教えてきました。
今、関係している大学では、政治学を教えるチャンスがない事もあり、この講座の開講に踏み切った次第です。
さらに、昨年来の出来事や、運動が私に政治学的常識の普及の必要を実感させたという事もこの講座開講の大きな推進力となっています。
例えば、外国人参政権の問題や、道州制の問題、さらに天皇の国事行為の問題。
またNHK問題に表れたように、マスコミと政治との関係。
これらの問題を正確により深く分析し、有効な行動に結びつけるためには、それなりの理論武装(元来、左翼用語であまり好きな言葉ではないですが)が必要だと痛感しました。
ある程度、現実の政治運動や国民運動に参加し、関わってきた体験が、今、政治学を教えるのに大変役に立つと思っています。
20年前の私よりは、今の私の方が、経験も踏まえて、国民の為の政治学をよりよく教授できるのではないか、と感じています。
全体のカリキュラムは以下に示す通りです。
【『藤井厳喜アカデミー』講義要項案―「国民の為の政治学」カリキュラム】ファイルをダウンロード
詳細カリキュラム表のURLは
http://www.gemki-fujii.com/blog/%E8%97%A4%E4%BA%95%E5%8E%B3%E5%96%9C%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%80%8C%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E7%82%BA%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6%E3%80%8D%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E8%A6%81%E9%A0%85.pdf
此方に、各配信スケジュールや講義内容、詳細が記載されています。(PDFファイル)
是非、全12講の講義を受けてみてください。
《国民の為の政治学》 1回、約1時間×全12回予定
第1講 2月12日 デモクラシー(民主政治)とは何だろう?
第2講 2月19日 国内政治と国際政治の違いとは何だろう?
第3講 2月26日 比例代表制と小選挙区制の違いとは何だろう?
第4講 3月5日 大統領制と議院内閣制の違いとは何だろう?
第5講 3月12日 マスメディアと政治の関係とは?
第6講 3月19日 政党の役割とは?
第7講 3月26日 デモクラシーはどのように発展して来たのだろうか?
第8講 4月2日 革命は何故、どのように起きるのだろうか?
第9講 4月9日 政治と文化と宗教の関係とは?
第10講 4月16日 政治家論:政治家に求められる資質とは?
第11講 4月23日 地方分権と中央集権の関係とは?
第12講 4月30日 様々な政治思想の違いとは何だろう?
具体的で分かりやすく、かつ、理論的な高い水準の講義である事をお約束します。
(※ ガイダンスの3番目の映像が「非公開」モードに長い時間なってしまっていたようで失礼いたしました。訂正致しましたので、是非、御覧ください。)
★ 【 Cambridge Forcust Group of Japan.Co 藤井厳喜チャンネル】
http://www.youtube.com/user/zingrace1213 (登録自由)
※ 私への御連絡については、以下のアドレスにご連絡を頂ければ、チェックが遅れる事もございますが、必ず情報は全て拝読しておりますので、宜しくお願い申し上げます。
藤井厳喜へのメッセージ、講演依頼も、以下アドレスまでお願いいたします。
ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ事務局e-mail : info.cfg.future@gmail.com
【お知らせ】 私も、フルタイムで参加します。是非、ご参加を!!
2.2 頑張れ日本!全国行動委員会結成大会& 日本解体阻止!全国総決起集会
平成22年2月2日(火) 於・日比谷公会堂
最寄り駅 東京メトロ:丸の内線・日比谷線「霞ヶ関駅」、日比谷線・千代田線「日比谷駅」 都営地下鉄:三田線「内幸町駅」
JR:山手線・京浜東北線「有楽町駅」「新橋駅」
14時00分 頑張れ日本!全国行動委員会 結成大会 大シンポジウム
・ 趣旨説明、討論、決意表明、各界人士 演説、全国地方議員決意表明、ビデオ上映
17時00分 頑張れ日本!日本解体阻止!全国総決起集会
・ 各界人士 演説 (国会議員、地方議員、文化人 その他)
・ 「大会宣言」 及び 「頑張れ日本!全国行動委員会結成宣言」採択
20時00分 終了
主催 頑張れ日本!全国行動委員会(準備委員会)、草莽全国地方議員の会、日本文化チャンネル桜ニ千人委員会有志の会
連絡先 草莽全国地方議員の会 TEL 03-3311-7810
日本文化チャンネル桜二千人委員会有志の会 TEL 03-6419-3900
※ 案内チラシは こちら↓
http://www.ch-sakura.jp/sakura/ganbarenippon0202_flyer.pdf(随時更新予定)
昨夜、17日に出演・収録され、19日夜に放映された政治がテーマのチャンネル桜の討論会「民主党政権と解体する日本」がYouTubeでも公開された。
出演者は以下の通り。
◆民主党政権と解体する日本
パネリスト:
潮匡人(評論家)
石平(作家・評論家)
川口マーン惠美(作家)
永山英樹(台湾研究フォーラム会長)
西尾幹二(評論家)
西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
藤井厳喜(国際問題アナリスト)
山村明義(ジャーナリスト)
司会:水島総
私は、徹底した小沢一郎批難に集中して発言した。
特に第二部の冒頭(4/3の事)での、私の発言を見て欲しいと思う。
1/4【討論!】民主党政権と解体する日本[桜H21/12/19]
2/4【討論!】民主党政権と解体する日本
3/4【討論!】民主党政権と解体する日本
1. 12月14日、民主党本部での記者会見で、小沢一郎は、「天皇と習近平の会見は、天皇の国事行為である」「国事行為であるから内閣の助言と承認によって行われるのは当然である」と述べ、天皇との例外的な会見への批難に逆襲した。
ところがこれで、小沢が憲法に関して全く無知無学である事が露見してしまった。
外国要人との会見は「ご公務」ではあっても、「国事行為」ではない。
国事行為とは、憲法7条に定められた10の行為のみである。
このうち、今回の件に関連していると思われるのは、第9項のみであり、そこでは「外国の大使及び公使を接受する事」としか記されていない。
如何に拡大解釈しても、シナの副主席・習近平との会見は、天皇の国事行為ではないのである。
2. 国事行為に関しては、内閣の助言と承認により、天皇がその行為を行う、事が定められている。
「内閣の助言と承認」とは、天皇陛下の主体性と意志を尊重して行われる事が前提となっている。
天皇陛下は、国民統合の象徴であり、国家の元首であるのだから、その下に立つ内閣が陛下への敬意をもって助言し承認する事はあまりに当然である。
現行の日本国憲法では、内閣の決定に基づいて、国事に関する行為を行うとは規定していない。
あくまでも助言と承認である。
例えば、第6条は、「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」と規定している。
この場合は、「指名に基づいて」という強い言葉が使ってあるので、内閣総理大臣の任命に関しては、天皇は殆ど自らの意思を介入させる事は出来ない。
ところが、第7条の「国事行為」に関しては、「内閣の指示に基いて」とは書いていない。
あくまで「内閣の助言と承認」である。
ということは、第6条の規定よりは、第7条の規定の方が緩いのであり、その分、天皇陛下のご意思を尊重しなければならない、という事が明らかである。
小沢一郎は、先ず、外国人との会見を国事行為であると誤って認識しており、更に内閣の助言と承認を内閣の命令と勘違いしている。
憲法とデモクラシーを全く知らないのは小沢自身である。
4/4【討論!】民主党政権と解体する日本
マスコミでは、民主党幹事長・小沢一郎が宮内庁の外国人引見に関する30日ルールを破ったという事しか報道していない。
それはそれで、重大問題だが、より重大なのは、習近平が2009年7月5日のウルムチにおけるウイグル人大虐殺の直接の責任者であるという点である。
このような人物を、天皇陛下と会見させる事は、皇室を汚すものである。
また、諸外国は、この件をもって、あたかも日本がシナ共産党の虐殺を容認したかのような印象を持ってしまう。
これも、皇室と日本にとっての大きな悲劇である。
自らの権勢の誇示と利権の拡大の為に、このような暴挙を行った小沢一郎を絶対に許してはならない。
尚、こちらにUPリンクしたYoutube公開版は、3時間討論の番組の2時間分となっています。
続きは、インターネットTV(So-TV)でご覧ください。
この映像の続き(2時間目、3時間目)は、So-TV (月額 3,150円 [税込] http://www.so-tv.jp/main/top.do )にて公開されておりますので、是非、此方でご覧下さい。
詳しくは此方のページをご覧ください。(http://www.ch-sakura.jp/580.html)
シリーズ『共和制革命を狙う人々―国家よりも党を重視する民主党』 第7回
第7回 「国家よりも党を重視する民主党― 民主党のイギリス・モデル傾斜の危険性」
9月16日の鳩山政権誕生以来の民主党政権の動向を観察して来ると、1つの事が非常に明らかである。
それは、政党があらゆるものの優位に立ち、国家機関すらも政党が指導するという、ある意味で政党独裁の体制に国を導いていこうという危険性である。
身近な国でいえば、鳩山首相や岡田外相や小沢幹事長が大変、親しみを感じているらしい中華人民共和国の共産党独裁の体制を思わせるような国家に対する党の優位の状況が日本で今、創られつつある。
民主党が言う、「官僚に対する政治家の優位」とは、実は、政党が国家機関の上位にあり、それをコントロールするという危険な思想ではないのだろうか?
シナでは、シナ共産党が国家機関の上位に立ち、全てをコントロールしていることは周知の事実である。
このような体制に日本がなってよいはずがない。
国民も日本がシナのような独裁国になる事は許さないであろう。
しかし、民主党はイギリス・モデルの統治をそのまま日本に導入しようとしている。
これは一見、日本国民にもよい印象を持たれているようだ。
何故なら、イギリスは君主国であり、立憲民主制の日本と共通項があるからである。
ところが、盲目的にイギリス・モデルを日本に導入する事には大きな危険性がある。
イギリスではかつて、王政を否定した共和制革命があった。
ピューリタン革命と呼ばれ、この後に出現したのがクロムウェルを中心とする独裁政権である。
これを英語では、「elected dictatorship (選挙された独裁性)」と呼んでいる。
つまり、王政は常に廃棄され、選挙によって成立した議会が独裁的権力をふるうという事である。
(↑↑↑ ※ 絵は、『クロムウェルとチャールズ1世』 ポール・ドラロッシュ 1831年)
この議会的独裁性の危険性が反省され、名誉革命によって王政復古が成り立ち、イギリスはバランスのとれた近代的立憲君主制の国となったのである。
それ以降も、王政の実質的な政治力は低下したので、イギリスにおいてはいつでも議会が独裁的な権力を振るう危険性が存在した。
これを最もよく認識していたのが、アメリカ建国の父祖(Founding Fathers)である。
それ故にアメリカは厳格な三権分立を導入して、クロムウェルの独裁、そして議会の独裁を許さないような体制を創った。
そもそも、イギリスの憲法は、不成文憲法と呼ばれる。
私流の解釈をするならば、成文と不成文(慣習)を組合わせた憲法体制である。
不成文の部分において、拡大解釈によって議会の独裁権が拡大する可能性も常に存在する。
それ故に、アメリカの建国の父祖達は、厳密なる成文憲法の制定に拘ったのである。
今日の民主党の小沢幹事長の立場は、ピューリタン革命後のクロムウェルの地位にも相当するかもしれない。
国会議員は確かに、国民によって選挙はされたものの、その権力が絶対ならば議会的独裁性がそこに成立するのである。
少なくとも今の日本はその危険性に直面している。
今晩の勉強会で、私の友人である在日経験の長いアメリカ人弁護士と話していたところ、彼が今日の民主党が「elected dictatorship (選挙された独裁性)」になるのではないか、と憂慮している事が分かった。
イギリスとアメリカの関係を少しでも深く理解していれば、了解出来ることだと思う。
アメリカ型デモクラシーが嫌いだからと言って、何でもイギリスのものを導入すれば良いという事でもなかろう。
イギリスには王様の首を切って、行なった、共和制革命があり、その革命への反省から今日の安定した立憲君主制が成立しているのである。
このような歴史的経緯は日本国民の少なくとも、政治家達の常識になって欲しい知識である。
8月中は、「NHK捏造事件」の取材調査や執筆の為、ブログが休みがちで申し訳ございませんでした。
日本でも民主党政権が生まれる大転換期にあたり、更に、気を入れ直し、9月からまたブログも力を入れ、情報発信をしていきたいと思います。
民主党の大勝には非常に危機感を覚えた。
その理由は、民主党の中にある極端に国家破壊的な要素である。
例えば、外国人参政権実現や、言論統制局「恒久平和局」設置等の非常に危険な共同体破壊的な、また極左・ファシズム的な要素があるからである。
しかし、それを承知の上で、「明日を生きる為に」敢えて、民主党勝利という現実の中にプラスの要素も探してみたいと思う。
どんな悪い事件の中にも1つや2つ、プラスに転化しうる要素があるに違いない。
1. 自民党と公明党の縁が切れた事
今まで、自民党が真に保守党的な愛国的な政策を取ろうとした時に、それを常に妨害し、阻止して来たのが公明党であった。
外交政策においても、国交正常化以前から、公明党が著しく親中的な党であるのは周知の事実である。今回、嫌でも自民党と公明党の連立は終わってしまった。
今まで、自民党の政治家が持ち続けて来た幻想は、公明党の支持がなければ選挙に勝てないという考え方であった。ところが、今回の民主党を見れば分かるように、国民の支持さえ得られれば、公明党の支持など無くても、選挙で圧勝できる事が分かった。
従来の自民党の非常に強い支持基盤の1つは、伝統的な宗教団体であった。
彼らは自民党と公明党との連立を見て、公明党の支持母体である創価学会への反発から、自民党支持を止めてしまった。あるいは、支持するにしても、熱心な支持は消えてしまい、極めて形式的な援助しかしなくなってしまった。
これが近年、自民党が選挙に弱くなった理由の1つである。
公明党、創価学会と縁を切れば、伝統的な宗教団体の支持を再獲得する事が出来る。
これは、日本の保守再生には明らかにプラスであろう。
2. 官僚制度の刷新が期待できる
官僚制度をひたすらバッシングすればよいという風には私は考えていない。
寧ろ、これ以上の官僚制バッシングは、国家解体に繋がるのではないか?と恐れてはいる。
しかし、社会保険庁の悲惨な状況などを見ると、やはり戦後60年を経て、日本の中央官庁に蓄積してきた腐敗・堕落を一掃し、刷新しなければならないのは確かである。
庶民感覚からすれば、あれだけどうしようもない「消えた年金」問題を見せつけられていれば、やはり野党の民主党に投票せざるを得なかったであろう。
また私も、民主党の年金一本化の公約は、支持できる。
また、民主党の公約の影響で、自民党の年金政策もだいぶ進歩したものになっていた。
やはり与党が変わらなければ、行政組織の刷新は難しいのであろう。
民主党に期待したいのは、行政組織を破壊する事ではなく、行政組織を刷新し、官僚にも真の働きがいとやる気を与える事である。
旧い腐敗した切り捨てるべき部分は、切り捨てながら、国民の為に効率的で柔軟な行政組織を創ることが民主党に期待されている。
マスコミ受けを狙っての、過度の官僚バッシングは慎むべきである。
今までは自民党の特定政治家とつるんだ官僚のみが特権を行使する、といった面は否定できなかったと思う。
こういった悪習を排し、清潔で国民全体に奉仕する行政組織を再構築しなければならない。
これも、民主党に与えられた使命である。
それにしても、外交政策の危うさがやはり民主党に関しては心配である。
内政の失敗はやりなおすことが出来ても、外交の失敗はやり直す事が出来ない。
「外交の失敗」は、即ち、「亡国」である。
それを棚上げし、敢えて、民主党勝利に期待する事を考えてみたら、以上の2点となった。
ここで真の愛国派が取るべき方策は、3つあると思う。
第1に、民主党の中に、愛国的抵抗勢力を組織する事である。
民主党にも、現実的な外交政策を主張している政治家は少数ながら存在する。
松原仁議員、前原誠二議員、長島昭久議員、中津川博郷議員、などは、まっとうな現実的な外交政策の支持者であり、シナの脅威をハッキリと認識している。
彼らは、民主党の主流派とは言えないが、彼らに一定のグループを党内に造ってもらい、極左的なそして国家破壊的な政策を民主党にとらせないように、党内の抵抗勢力になってもらう必要がある。
我々も彼らの活動を積極的に支援すべきである。
第2に、自民党の中に、真性保守の復活をはかる核になるグループを創る事である。
今回の、自民党大敗の最も単純にして、根幹的な原因は、麻生内閣が真の保守路線を打ち出せなかった事である。
例えば、安倍首相も麻生首相も、靖国神社に参拝せず、明確にシナの反日外交にNOと言わず、その保守色をあまりに曖昧にしてきた。
国民の中の真に愛国的な人々は、そんな自民党にすっかり愛想を尽かして来た。
自民党が、自主憲法制定を訴えた党創立の原点に返れば、多くの揺るぎの無い支持者を結集できるはずである。
自民党を、真性保守党として再生させるコア・グループが自民党の中に出来なければならないし、我々もこれを積極的に支持しなければならない。
第3に、平沼赳夫先生や、城内実議員のような、自民党の外にも真の愛国者=保守派は存在する
彼らが、自民党に復党すればよし、復党しなければ、独自のグループを創るであろうから、この第3のグループも我々は積極的に支持すべきである。
以上、3つのグループが、可能な限り、連携すれば、民主党の持つ国家破壊的な、そして共同体破壊的な要素はかなり抑制できるであろう。
私の見たところ、民主党で新しく国会議員に当選して来た人々の中には、かなりの「カン違い愛国者」がいるものと思われる。
十分な知識がない為に、日本を解体する事と、日本を良くする事の区別がつかないような、未熟な人たちである。
取敢えずは、彼らは小沢一郎闇将軍の一兵卒に過ぎないであろうが、教育すれば、国家破壊に反対してくれる政治家にもなり得るであろう。
彼らに対する教育や、啓蒙といった事も、我々、モノを書く人間の責任の一端であると思う。
自分にどれだけの事が出来るか分からないが、民主党圧勝に絶望せず、出来る限りの事をやっていきたい。
本日、チャンネル桜にて放映されました衆院選に関するキャスター討論会の映像の(3時間)1時間目の分の映像がYouTubeにて公開されましたので、ご報告させて頂きます。
◆キャスター討論「衆院選、どうなる日本!?」
パネリスト:
井尻千男(「桜プロジェクト」月曜日コメンテーター)
高森明勅(「桜プロジェクト」水曜日キャスター)
西村幸祐(「報道ワイド日本Weekend」キャスター)
藤井厳喜(「報道ワイド日本Weekend」キャスター)
三輪和雄(「桜プロジェクト」火曜日キャスター)
山際澄夫(「報道ワイド日本Weekend」キャスター)
司会:水島総
1/4【キャスター討論】衆院選、どうなる日本!?[桜 H21/8/21]
2/4【キャスター討論】衆院選、どうなる日本!?[桜 H21/8/21]
3/4【キャスター討論】衆院選、どうなる日本!?[桜 H21/8/21]
4/4【キャスター討論】衆院選、どうなる日本!?[桜 H21/8/21]
この映像の続き(2時間目、3時間目)は、So-TV (月額 3,150円 [税込] http://www.so-tv.jp/main/top.do )にて公開されておりますので、是非、此方でご覧下さい。
詳しくは此方のページをご覧ください。(http://www.ch-sakura.jp/580.html)
シリーズ『共和制革命を狙う人々―世襲制批判・批判』 第6回
第6回 「世襲制批判・批判」
最近よく、「世襲制」への批判を見聞する。
主に政治家(代議士)の世襲制への批判であり、これには最もなところも多い。
しかし、少し深く物事を考えてみると、一般的な世襲制批判もまた、共和制革命に結びつく危険な思想である。
世の中には、世襲が適当であるものと、適当でないものがあるようだ。
世襲制一般を否定してしまうと、やがては日本人にとって最も重要な世襲制を否定してしまう事になる。
その最も重要な世襲制とは天皇の世襲制である。
他の世襲制度は否定されても、天皇の男系男子による世襲が否定されてしまえば、日本という国そのものが破壊されてしまう事になる。
それ故に、世襲制一般に対する批判は、きわめて慎重に行なわなければならないだろう。
そして、世俗的な世襲制一般に関しては、様々な議論が存在してよいが、皇室の伝統に関しては世襲制こそがその命であり、それを否定する事は日本を大事に思うものにとっては原理的にはあってはならないことである。
今、最も一般的に否定されている世襲制は「政治家の世襲制」である。
麻生総理大臣はもとより、それに対抗する民主党の鳩山代表や、前代表の小沢一郎氏にしても皆、政治家の何代目かである。
台湾の李登輝元総統は、日本を愛して止まない誰もが知る親日家であるが、日本の政治家の世襲制だけはよくないと日本人に苦言を呈している。
李登輝さんほどの愛日家がそういうのだから、外国人の視点から見ても、日本の政治家の世襲に大きな問題があるのは確かである。
能力のある、特に国際的な交渉力のある政治化が、世襲制では中々生まれにくいのは事実である。
ここのところ、日本の総理大臣を務めた安倍氏や福田氏にしても、如何にもひ弱さと剣が峰に立っての度胸の無さが目立った。
その前の小泉総理は、三代目の世襲政治家ではあったが、中々に見解に強くピンチに立っても堂々と行動していた事だけは評価されてよいだろう。
しかし、一般的に言えば、安易に政治家の地位を手に入れられる二世、三世、四世の政治家がひ弱であり、度胸も無く、国際的な交渉力に欠けるというのは事実である。
しかし、民主的な選挙制度をとる日本においては、世襲政治家を選出しているのは、つまるところ選挙民である。
相対的に世襲政治家への安心感が強いので選ばれてくるだけの話であろう。
確かに世襲なくして安定した代議士のポジションを得ることはきわめて難しい。
多くの潜在的な政治的能力を持った人々が、政治家になろうとしないのは、あまりに長い時間とエネルギーを必要とするからである。
20代でスタートしたとして、徒手空拳の政治家志望者であれば、国会に安定した議席を得るまでに、少なくとも20年の歳月は必要とされるであろう。
これは、あまりにもリスクの多い職業選択の道である。
国政で活躍しようとするものにとっては、国会で安定した議席を得られる時点がスタートラインに過ぎないのである。
つまり、ごく普通の人間であれば、国政レベルの政治家としてスタートラインに立つ為に、少なくとも20年の歳月を費やさなければならないのである。
競争力の無い世襲制の政治家を排除し、能力のある「非世襲の政治家」を国会に送るには、選挙民の見識が高くなければならないだろう。
また、それだけではなく、政党が優れた候補者を組織的に応援し、非世襲の優れた人材が過剰な負担を個人的に負うことなしに政治家になる仕組みやルートを作っていかなければならないだろう。
そのような努力を怠って、世襲制批判だけをしていても全く無意味のように思われる。
世の中には歌舞伎や能の役者のように、世襲を前提にしなければ伝統が継承できない職業も存在する。
子供に適正がなければ世襲は不可能だし、養子という制度も用いられるが、伝統的な家という枠組みがあってはじめて伝統芸能の伝統が継承されてゆく事が出来るのである。
こういった場合は、世襲制は寧ろ、賞賛されるべき制度であって、何ら批判されるべきところはないように思う。
世襲制批判の前提となっているのは、原理的に言うならば、おそらくは、個人を過去の伝統や制約から切り離し、孤立した自由な人格と考える哲学であろう。
しかし、我々の中の誰が一体、自由な電子のように過去から一切解き放たれた存在でありうるだろうか?
我々の誰しもが、親からの遺伝という拘束条件を受け、時代と場所という動かし難い自分の選択しなかった状況の下で生きてゆく事を余儀なくされている。
与えられた運命の中で、我々の持つ自由の度合いは、実はきわめて少ないと言わなければならないだろう。
精神的にも、肉体的にも、我々は先祖伝来の遺伝的影響の下に存在しているし、幼児にとって、決定的に重要である環境すら幼児であった我々自身が自由に選び取ったものではないのである。
しかし、人がもし、真に生甲斐のある人生を送りたいのならば、如何なるものであれ、一旦、これらの非拘束条件を全て運命として受け入れ、これを肯定するところから出発しなければならないだろう。
この覚悟を「運命愛」と名づけた人もいる。
「運命愛」を持ちえた時に、逆説的だが人は、はじめて自由な存在となり、つまり己がどのようにどの程度、自由であるかを自覚する事が出来るのである。
如何なる非拘束条件があろうとも、人が現在から未来に歩みだす時、その選択の幅が如何に狭くとも、選択が存在する限りにおいて、人間は全く自由である。
おそらくは死の直前にいたるまで、人は選択的には自由であり続けるしかないのである。
このように人の運命と自由を考えていれば、人はある意味で誰しもある一定の世襲制のもとに生きている訳である。
それを完全に否定し、人があたかも完全に自由な選択をしうる存在だと考えるのは、あまりに楽観的であるし、あまりに愚かな人生観であろう。
一律的な世襲制批判は、以上のような底の浅い考え方からのみ生まれてくる劣化した感情論でしかないだろう。
その感情論が、隠蔽しているのは、多くの場合、優れたものへの嫉妬やルサンチマンあるいは、劣等感なのであろう。
そのような劣悪な感情からは何も美しいものは生まれて気はしない。
※ 次回、シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第7回『国家よりも党を重視する民主党 ― 民主党のイギリス・モデル傾斜の危険性』 に続く。
シリーズ『共和制革命を狙う人々―大統領制、道州制を推進する人々の陰謀と偽善のカラクリ』 第5回
第5回 「地方の人々は本当に地方主権を望んでいるのか?」
私が抱いている大きな疑問は、地方の人々が本当に「地方主権論」や「連邦制論」を望んでいるのか?という疑問である。
私が言っているのは、ごく普通の人々の事であり、県知事や県会議員の事ではない。
例えば、東北の過疎地に住むお祖父さんやお祖母さんは道州制論を望んでいるだろうか?
また、四国や九州の田舎の人達が本当に地方主権論や連邦制論を望んでいるだろうか?
地方に行けばいくほど、人々の考えは保守的であるというのが常識である。
地方の農家には、未だによく天皇陛下と皇后陛下の写真を額縁に入れ、家の柱に飾ってある家を見かける。
都会では稀な現象である。
つまり、地方に行けばいくほど、皇室に対する尊敬の念が広く見られるのであり、こういった保守的な皇室崇敬の念の厚い人々が、皇室と地方を切り離す、地方主権論などを指示するわけがない、というのが私の直観である。
また、僻地や離島であるほど、中央政府からの援助や補助を必要としている。
地方主権が成立してしまえば、大都市の豊かな税収を僻地の貧しい地域に持ってゆくということも出来なくなる。
僻地や離島ほど中央との強いパイプを求めているというのが、一般的傾向である。
例えば沖縄の離島などがそのよい例であろう。
まず、沖縄県自身が中央からの強力な財政支援によってはじめて成立している自治体である。
そして、離島ほどこの傾向は著しい。
例えば、与那国島や、石垣島などの日本の最西端の島々の事を考えてみよう。
これらの島々は、国防の最前線でもある。
強力な中央政府の支援がなければ、たちまちにシナの侵略を受けてもおかしくない島々である。
これらの国境の島々では、宮古島なども含め、自衛隊の駐屯を望む声が強力である。
自衛隊基地を作り、島々の人口を増やし、安全を確保すると同時に、経済をも浮上させたいという島の人々の願いは痛切である。
沖縄本島においては、反自衛隊的意識が強いようだが、国境にある沖縄の離島では、そのような感情は全く見られず、自衛隊、歓迎論が主流である。
これには、歴史的背景もある。
沖縄本島の人々により、これらの離島の人々は、著しく差別されてきた。
それ故に、沖縄の離島の人々は、本土との一体感を求める気持ちが強いのである。
地方自治体の職員や、議員ではなく、まったくの一般庶民は特に、過疎地や離島に行けば行くほど、日本国民としての一体感を求めていると思われる。
これらの人々は、地方主権論や、連邦制論を絶対に指示はしないであろう。
※ 次回、シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第6回『世襲制批判・批判』 に続く。
シリーズ『共和制革命を狙う人々―大統領制、道州制を推進する人々の陰謀と偽善のカラクリ』 第4回
第4回 「天皇と国民を遠ざける連邦制論」
日本国の統合の象徴である天皇と国民の間に入ってきて、それを遠ざけようとしているのが地方主権論であり、その延長線上にある「道州制論」や「連邦制論」である。
日本国民は、自らの統合の象徴として天皇を仰ぎ、天皇のもとの国民という感情によって、その一体感を実感してきた。
一人の天皇のもとに、代々統一されてきた日本国民であるとの自覚を持てば、日本国を統治する天皇のもとの一つの中央政府というイメージを当然に国民は抱くであろう。
天皇のもとに一つの中央政府が存在し、これが日本国民を差別なく平等に取り扱い、日本各地を一つの統一された基準によって統治するというイメージである。
これは、天皇のもとにおける中央集権政府を容易に存立せしめるであろう。
つまり、天皇のもとにおける平等な国民、という意識からは地方主権論などは生まれ難く、そして天皇のもとにおける強力な中央政府こそがその意識からは生まれてくることになる。
明治維新に言う「維新」とはそもそも、何だろうか?
たとえば、平成の御代における日本の真の革新を考える時、我々は明治維新にならい、平成維新という言葉を使いたくなる。
「維新」とは、国の存立の基盤に戻ることにより革新を行おうという革新的復古の思想であり、復古的革新の思想である。
そして、歴史的にみるならば、維新とは、天皇のもとにおける国民の平等をさらに進める事である。
「大化の改新」において、「明治維新」において、日本国民は天皇のもとにおける平等な存在としての立場を獲得することが出来たのである。
明治維新に関して言えば、封建的諸侯による幕藩体制という地方分権性から解放され、日本国民は天皇のもとにおける市民平等の存在となったのである。
藩という地方分権制と、士農工商という封建的身分制度から解放され、日本人は天皇のもとにおける平等な存在となることが出来たのである。
今日以降においても、日本におけるデモクラシーの原点は、天皇のもとにおける平等という思想であろう。
西洋において、キリスト教的「神」のもとにおける平等という思想が、近代の西洋のデモクラシーを推進してきたことと極めて類似している。
天皇のもとにおける平等な国民という一体感を阻害し、天皇と国民の間を遠ざける存在として、介入してくるのが「地方分権論」であり、「連邦制論」である。
「地方主権」によって成立するであろう、道や州は、「疑似独立国家」であり、それは同時に疑似共和制国家である。
道や州が独立性を強めれば、強めるほど、国民の一体感は薄れ、存在するのは一つの国民ではなく、それぞれの地方の地方人でしかないという傾向が強まる。
つまり、天皇のもとに一体をなしているという日本国民のアイデンティティーは、大きく損なわれてくるのである。
寧ろ、順番から言うならば、天皇を忘れさせ、天皇と国民を分断させる為にこそ「地方主権論」や連邦制論は導入されているかに見える。
「連邦制」それ自体が行政的に、日本国を分断するのはもちろんだが、より深いところでは、天皇と国民を引き離すことにより、日本国民としての一体性を破壊し、ゆくゆくは皇室を破壊することこそ地方主権論者の真の狙いなのであろう。
例えば、このシリーズの第2回目で取り上げた、「『地方主権の提唱』(1990年発表)」という提言書にしても、天皇については、一言も論じてはいない。
天皇を敢えて無視したという形跡が濃厚である。
考えれば、単純な話であろう。
天皇について論ずれば、天皇こそ歴史的な国民統合の象徴であるという事に誰でもが思い当たる。
そうすれば、地方主権論などというバカげた、日本国民を地理的に分断する発想などは生まれてこようがないのである。
既に、言った事ではあるが、最後にもう一度、確認しておきたい。
それは、「大統領制」にしろ、「地方主権論(連邦制論、道州制論)」にしろ、これらはいずれも隠された「共和制革命論」であり、天皇制を転覆しようとする陰謀に他ならない。
天皇のもとに団結した、平等な国民であるという日本におけるデモクラシーの唯一の原点を破壊しようというのが大統領制論や地方主権論であり、その事に日本国民ははやく気がつかなければならない。
大統領制論や地方主権論は、皇室を破壊しようとするばかりでなく、日本国を破壊し、日本国における唯一のデモクラシーの存立基盤を破壊するものでもある。
中央政府と地方自治体の権限の分割の仕方は時代の要請に従って様々に考えられてよいであろう。
また、地方自治体も中央政府も含め、行政というものが、どれほどの権限を持つべきか?という事についても、時代の要請によって、柔軟に考えるべきであろう。
国民自体の自治的能力が高まれば、行政府自体の仕事は減っていっても、一向に構わないのである。
しかし、大統領制論や地方主権論は、こういったプラクティカルな現実論とは、その目的をまったく異にするものである。
もっとも単純に言えば、大統領制論も地方主権論も、日本を解体するという隠れた目的をもった謀略である。
※ 次回はさらに、シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第5回 『地方の人々は本当に地方主権を望んでいるのか?』
に続く。
シリーズ『共和制革命を狙う人々―大統領制、道州制を推進する人々の陰謀と偽善のカラクリ』 第3回
大統領制ほど、一見危険なものではないが、共和制革命のための隠れた一手段となっているのが「道州制」の主張である。
政治改革の文脈の中で、道州制こそ、日本を再活性化する切り札であるなどという誤った宣伝が度々繰り返されている。
大阪府の橋本知事なども、地方主権などという怪しげな言葉は流石に使わないが、道州制には賛成であると聞いている。
道州制、もしくは連邦制は、地方自治を活性化する手段だと言われているが、今、主流となって主張されている道州制論は、統一国家日本の露骨な解体論である。
道や州によって、法律体系まで全く変えてしまえという主張であり、経済効率、行政効率から考えても、日本国を著しく非効率的な分断国家に陥れようという、誠に愚かな政策である。
政策効率だけを考えるならば、むしろ、中央集権をさらに強化したほうが遥かに日本国中、均一のサービスをより安い行政コストで行えるのは非を見るよりも明らかである。
道州制は、表面上の主張に反して、実は国家レベルでみた場合、非常な行政効率の悪化をもたらす愚策でしかない。
確かに、地方色の地方文化を重んじる行政を行いという欲求は存在するであろう。
それならば、日本国の均質な行政体系のもとでかつての江戸時代に習い、300自治体を作ればよいのである。
現在の、衆議院の小選挙区がちょうど300あるから、それぞれの小選挙区が1つの自治体を作り、行政単位となれば、効率を保ちながら、ほぼ同一の人口規模の自治体が個性ある街づくりを行うことができるだろう。
一体、東京と大阪が新幹線で2時間半で結ばれる現代において、あるいは東京と名古屋がリニアモーターカーで一時間以内で結ばれる近未来において、日本国を法体系的に分断し、一国の経済効率と行政効率を悪化させようという試みは、一体、どこから生まれてくるのであろうか?
道州制は、行政改革案としては全くナンセンスなのである。
広域行政をやりたければ、自治体が連合してこれを行えばよい。
更に、広域な行政を行いたければ、それはもはや国家政府の仕事である。
行政効率的には全くナンセンスとしか言いようのない道州制案も、これが隠れた「共和制革命」への謀略の一環としてみれば、誠に巧みな企てということができる。
道州制によって、成立する道や州は昨日のブログで述べたように、極めて地方主権的な色彩の濃いものである。
つまり、道や州は事実上の独立国家となり、これらの独立国家の形式的な連邦としてしか日本国は存在しえないという構造になる。
それぞれの道や州は、極めて主権独立国家に類似したものとなり、これらの疑似国家は、すなわち共和制国家としてしか成立しようがない。
とすれば、道州制が目指すのは、疑似共和制国家による連邦体制に、日本を解体してしまうという事である。
結論からいえば、道州制論は、隠れた「共和制革命論」なのである、そして日本解体論でもある。
道州制論にしろ、大統領制論にしろ、問題の本質は、それが隠れた「共和制革命論」という恐ろしい本質である。
美しい政治改革の仮面のもとに、日本の文化を根本的に否定する人々の醜い謀略の素顔を見抜かなければならない。
共産党のように、正面から天皇制否定、皇室否定、共産主義による共和制革命を訴える人々に対しては常識ある日本人はこれを警戒し、拒否することはできる。
しかし、大統領制論や、道州制論は、一言も表面においては天皇の否定や共和制革命の推進を訴えてはいない。
しかし、その本質を詳しく考えるならば、以上のように論証してきたように、これらの美名に隠れた改革論の本質は、実は共和制革命論なのである。
天皇を国民の統一の象徴として仰ぐという日本国の伝統そのものを根本的に覆そうとする反日的な人々の策謀が、大統領制論や道州制論という形で、現れてきているのである。
これは何も幸福実現党のことについて言っているのではない。
あらゆる大統領制論や、道州制論の根底には、このような危険な悪意が蠢いている。
善意からつまり、日本国を愛するが故に、政治改革を望み、政治改革を望むが故に、大統領制や道州制に共鳴する人々の多いことであろう。
この人たちは、単にこの謀略と策動にひっかった被害者であり、「騙される日本人
」の典型といってよいであろう。
仕掛けに乗せられたこれらの人々に悪意はなく、これらの人々を悪しざまに批難したいとは私は思わない。
むしろ、これらの人々にその悪しき本質について、覚醒してほしいと思い、このようなブログを書いた次第である。
しかし、これらの人々の考えを改めないならば、ある時点から被害者が加害者に変質していくことになる。
統一教会やオウム真理教のような、カルトに洗脳されて信者になったものは、初めは被害者には違いないが、彼らが能動的にカルトの積極的な公布、宣伝に従事するようになれば、その時点から彼らは既に加害者になっているのである。
ごく一部の、悪意を持った仕掛け人を除けば、大部分の大統領制論者や道州制論者は今のところ被害者であると私は感じている。
一刻も早く、事の本質に気が付き、目覚めてほしい。
※ 次回は、シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第4回 「天皇と国民を遠ざける連邦制論」 に続く。
シリーズ『共和制革命を狙う人々―大統領制、道州制を推進する人々の陰謀と偽善のカラクリ』 第2回
第2回 「地方主権論と共和制革命」
▼ 地方主権という言葉のいかがわしさ
政治改革の文脈で、「地方分権論」が主張されて久しい。
「中央集権=悪」であり、「地方分権=善」であるといったような短絡的な思考が今も支配的である。
最近では、宮崎県の東国原知事などが盛んに「地方主権」などという言葉を使っている。
地方主権などという日本語は、まず間違っており、そのような概念自体が成立しようがない。
「主権」とはそもそも、国家に関して言われる概念であり、地方自治体に関して使われる概念ではない。
主権とはそもそも、不可分のものであるというのが元来の定義であって、地方に分割されてしまうなら、それはもはや、主権とは呼べない代物なのである。
「地方主権」という言葉(概念)自体が、それ自体で自己矛盾を抱えた用語なのである。
強いて言えば、「赤い白色」とか、「右向きの左」といった矛盾した言葉である。
宮崎県が、主権を持ちたいというならば、それは宮崎が日本国から独立し、自らの国軍を持ち、自らの防衛に責任を持つことになった時にのみ可能である。
仮に、そうなったとして、その時の「独立宮崎国」は、当然のことながら、君主国ではなく共和国になるのであろう。
「地方主権」という言葉を用いる隠れた危うさが、ここにはもう1つ存在する。
つまり「地方主権」という言葉を使うとき、その先に見えてくるのは皇室を否定した共和国のイメージなのである。
象徴天皇を否定し、日本で共和制革命を実行しようというような謀略めいた考えが、地方主権という言葉の陰に蠢いているのが私には見えるのである。
つまり、宮崎県が、「独立宮崎国家」になればその時初めて「主権」という言葉を使いうるのである。
東国原知事などが実際に要求しているのは、「地方主権」ではなく、「自治権の拡大」である。
自治体という概念は、確固たるものであって、地方主権などという曖昧にしていかがわしい概念ではない。
地方分権を主張し、自治権の拡大を要求するというのならば、その主張に賛否はあっても、筋の通らない主張ではない。
▼ 中央集権と地方分権
日本は、かつて見事なまでに地方分権的な国家であった。
それは江戸時代のことである。
中央に、徳川幕府は存在したが、俗に300所公といわれ、300の大名が、分権的に日本を統治していたのである。
各地方には、それぞれ個性ある文化が生まれ、封建的な分権制度は江戸時代に1つのピークを極めていた。
幕末から明治維新にかけて、このように地方分権的な国家では、近代統一国家としては機能しえないということで、中央集権への流れが決定的になった。
江戸時代の反対で、天皇のもとの中央集権的政府が日本国を統一したルールで統治する体制となった。
近代統一国家を作るには、大変、効率的なやり方であった。
各県知事ですら、県民によって選ばれるのではなく、中央の内務省から中央政府の内務省が各県知事を任命していたのであった。
戦後は、占領軍の改革により、より地方分権的にはなったが、中央官庁の締め付けはなお強く、所謂、三割自治といわれる状況が常に何十年も前から批判されてきた。
「三割自治」とは、各地方自治体の行う仕事のうち、独自の予算で賄える部分が予算上で30%しか存在しなかったからである。
つまり、7割の予算は中央政府からの補助金等によって分配されたものであった。
当然、中央官庁の地方自治体への行政指導力は強力なものがあった。
自治体といえども、3割しか予算の裏付けをもった本当の自治は行えていなかったのである。
日本には、かつて奇妙な中央官庁が二つ存在していた。
1つは、自治省であり、もう1つは行政管理庁である。
行政管理庁とは、謂わば行革を行い、役人の数を減らすための役所である。
言い換えれば、役人を整理するためのお役所である。
誠に奇妙な官庁であった。
自治省というのも、似たようなもので、地方自治を指導する官庁が中央に存在したわけである。
これでは、本当の地方自治の繁栄はもとより不可能であったに違いない。
しかし、地方分権を求める声が高まり、過度の中央官庁への権限の集中が批判されるようになってきた。
地方のバス路線の山の中の停留所を1つ動かすことにさえ、中央の運輸省の許可がいるといったようなバカバカしい許認可行政に対する国民や自治体の反発は一種の国民的なコンセンサスを得てきたと言ってもよいだろう。
無用な許認可行政が政治家や役人の腐敗汚職を生んできたのも確かである。
江戸時代の日本を見れば、日本人は甚だ自治能力に富んだ国民であり、何もかもお役人に決めてもらわなくても社会を十分に運営していくだけの能力はあるのである。
確かに過度の中央集権的許認可行政を正すことは必要であるが、何もかも中央集権が悪く、地方分権が正しいのかとなると、これはこれで大きな疑問である。
例えば教育制度について考えてみれば、明治以来の中央集権のお陰で日本国中、均一のレベルの教育が普及し、これが日本の近代化を促進し、貧富の差が過度に広がることを防いできた。
義務教育の質の高さが社会の共有財産になってきたのである。
北海道の利尻島から、沖縄の石垣島まで全ての小学校の教育設備は均一であり、音楽の音楽室の設備や理科室の設備も、同じ水準のものになっている。
これを日本人は当たり前のこととしてあまり評価しないようだが、これは効率的な明治以来の中央集権制によってのみ成し得た偉大な成果である。
発展途上国に行けば、この様なことは期待できないし、アメリカのように地方分権と自治体の力が強いところでは、このような教育制度の均質な発展は望むべくもない。
アメリカにおいては、経済的に貧しい自治体の公立学校は貧しいままに放置されており、設備は劣悪で、教師の質の極めて低いのが当然のことになっている。このような豊かな自治体は豊かであり、貧しい自治体は貧しいという差別は、警察や教育のみならず、警察や消防においても見られるところである。
自治体の財政主権を重んじるというのは、一見、結構なことのようだが、貧しい自治体においては救いのない状況になってしまうのである。
日本人は、明治以来の中央集権の長所を見ずして、欠点のみを見て、「地方分権=善」、「中央集権=悪」、という短絡的な思考に走っているように思われる。
そこから、「地方主権」などという怪しげな概念も生まれてくるのであろう。
ちなみに、私が知る範囲では、「地方主権」という言葉を使った一番古い例が、1990年に発表された『社団法人 行革国民会議 (地方分権研究会)』による「地方主権の提唱」という提言である。
つまり、地方主権という国家解体を仕掛ける勢力は、約20年も前からその策謀をはたらいてきたわけである。
まことにその根は深いと言わなければならないだろう。
この提言を読んでみると、このレポートを指示していたのは二つの勢力ではないか?
という推論が成り立つ。
それは、第一にアメリカからの圧力であり、第二は日本国内における新左翼的国家解体論である。
当時、アメリカの政権はブッシュ・シニア政権であり、日本に向けて日米構造協議による改革案を日本に盛んに仕掛けていた。
アメリカからみれば、通産省や、大蔵省に代表される、強い中央官庁がアメリカ側の要求に立ちはだかる大きな障害であった。
アメリカを中心とする欧米諸国からの強力な中央集権的日本解体への圧力が、この提言の背後にあったとしても少しもおかしくはない。
この提言書の国内における強力な支持勢力は、新左翼的・市民運動的中央集権解体論であろう。
1970年代には、所謂、革新自治体が日本各地で生まれ、従来の社会主義革命論に変わり、地方分権による日本解体論が大きな勢力を占めていた。
その熱狂的支持者は、従来の社会党や共産党ではなく、新たに登場してきた市民派左翼や、所謂、新左翼であった。
国家権力を解体し、地方自治体の権限を強め、その地方自治体を各個撃破によって、革新自治体化し、やがては日本全体の左翼革命を達成しようとする戦略が多くの支持者を集めていた。
まさに、彼らが望むような政策がこの提言書には溢れていると言ってよいだろう。
※ 次回は、シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第3回 「道州制と共和制革命」 に続く。
シリーズ 『共和制革命を狙う人々―大統領制、道州制を推進する人々の陰謀と偽善のカラクリ』 第1回
我が国において、時折、「大統領制」の採用が話題になる。
最近では、幸福の科学が作った「幸福実現党」の憲法草案が大統領制を採用するということで話題になっている。
結論から言うならば、日本のような体制をとる国においては、原理的に大統領制の採用は不可能である。
大統領制がよいとか、悪いとかいう以前に、政治学的にいって、大統領制を採用することが不可能なのである。
以下、このことを簡単に説明してみたい。
大統領(President)とは、「選挙で選ばれた共和国の元首」のことである。
それでは、日本はそもそも共和国なのであろうか?
日本は、立憲君主制(Constitutional Monarchy)の国であり、共和制の国ではない。
共和制とは、王様のいない国のことである。
日本の天皇は、西洋の王(King)とは確かに本質的に異なる存在である。
西洋の王(King)とは、日本でいえば、将軍に類似した存在である。
武力で天下を制覇し、その子孫が王として一国に君臨している。
日本の天皇は、徳川家や足利家のような将軍家を遥かに凌駕する権威をもった王以上の存在である。
しかし、国家の体制の分類上は、日本が立憲君主制であるのは言うまでもなく明らかである。
日本が共和制でない以上、大統領制はその定義からして原理的に採用することは不可能なのである。
もっとも、英語の世界で最も権威ある辞書と呼ばれるOxford Dictionary of English (ODE)によれば、「President」とは、「the elected head of a republican state.」と定義してある。
つまり、「選挙で選出されたところの元首」という意味である。
ちなみに「head of a state.」とは、「元首」という意味である。
国家とか政治に関わりのない場合、presidentとは、「さまざまな組織の最高責任者」という程の意味である。
世界の大統領も、大体2種類に分けて考えることができる。
第1種の大統領は、フランスやアメリカの大統領のように、実質的に国家権力を行使する大統領である。
大統領はこの場合、行政府の長であり、国軍の最高司令官であり、同時に元首でもある。
第2種の大統領は、ドイツやアイスランドの大統領のように、実質的な国家権力を持たない、名目的な国家元首としての大統領である。
この種の大統領は、国民全体によって選ばれるが、実質的な政治権力からは切り離され、国家の名目的な代表者(元首)として、象徴的にあるいは儀式的に機能するだけの存在である。
いずれにせよ、大統領は共和国(世襲的王権の存在しない国)において、国民一般が選び出す共和国のTOPである。
世界中のあらゆる国において、世襲的王政の存在する国では、大統領は存在していない。
これには1つの例外もない。
王政の存在する国において、実質的な政治の最高権力者は「総理大臣」である。
王政のある国においては、議院内閣制がとられ、議会が行政の最高責任者である首相を選出する。
首相は行政府の最高責任者であるが、元首ではない。
立憲君主制を採っているイギリスでもスウェーデンでも、オランダでも、ノルウェーでも、このことには1つの例外も存在しない。
同じく、立憲君主制を採っている日本でも、議院内閣制こそがデモクラシーを前提とした場合、唯一の可能な政治体制であり、大統領制の採用はあり得ない。
これは、原理的に、歴史的に、常識的に言って、あり得ないのである。
もし、日本において大統領制を採用するというならば、それは、ただ一つの可能性しかあり得ない。
それは、君主制を打倒し、排除する共和制を導入する場合のみである。
日本国民が、それを望まない以上、大統領制に関する議論は全くのナンセンスであり、如何なる大統領制であれ、全く議論に値しないということができる。
大統領制そのものではないが、かつての中曽根首相のように、「首相公選制」による「大統領的首相」の必要を説くものもいる。
あらゆる改革を進める為には、政治権力の集中と強力な指導者が必要であり、その為に国民の直接選挙による大統領的首相の必要を主張するのであろう。
その気分は、僅かながら理解はできるが、首相は首相であり、大統領は大統領であり、大統領的首相などという鵺のような存在は世界中見渡してもこれを発見することはできない。
国民全体によって、一人の政治家が国の最高権力者として選出されてしまえば、その存在は元首に極めて近いものにならざるを得ない。
そのような存在が元首たる君主と並列する事は国家の体制に矛盾を産むことになる。
それ故に、国民全体によって選ばれる大統領は、存在しても、国民全体によって選ばれる首相は存在しえないのである。
(共和国においては、大統領の下に首相が存在する事がある。)
唯一、首相公選制が存在した国家があった。
それは、イスラエルである。
小党乱立気味のイスラエルにおいて、強力なリーダーシップを期待して首相公選制が一時採用されたが、これもやがて放棄され、今や首相公選を採用している国家はひとつも存在しない。
ちなみにイスラエルは、共和制国家なので名目的元首としての大統領が、国民全体から選出され、この大統領が様々な政治的要素を比較考量し、次期内閣総理大臣を指名する事になっている。
別の言い方をすれば、安定した内閣を組織できそうな政治家に組閣のチャンスを与え、それが不可能な場合は、また別の政治家にチャンスを与えるのである。
以上のように、一般国民による首相の直接選挙すらやっている国は世界中、一つも存在しないのである。
このような世界の常識を知らずして、大統領制の採用を唱えることはあまりに無知な行為なのではないだろうか?
もし、それが無知な行為でないとすれば、大統領制を唱えるものは、日本において皇室を否定する革命を行おうとする者である。
※ 次回は、
シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第2回 「地方主権論と共和制革命」 に続く。
6月29日月曜日、拓殖大学八王子キャンパスにおける国際関係論の授業で以下のような講義を行なった。
現在の、国際法上の考えでは、という事は、国際政治の現実においては、国家の大小に関わらず、あらゆる国家は平等の存在である。
あたかも、日本国内においては、金持ちも貧しいものも法律上は平等である事と似ている。
つまり、人口がたった2万人しかいないパラオ共和国も、人口が13億人以上もいる中華人民共和国も、国際法上は主権独立国家として平等の存在なのである。
という事は、影で如何なる犯罪を犯そうとも、北朝鮮もまた、国家としては日本と対等の存在なのである。
その証拠に北朝鮮は、国連の立派な加盟国である。
国連は、あらゆる主権国家は平等であるという前提で、組織し、運営されている。
例外は、第二次世界大戦の枢軸国だけである。
という事は、拉致問題の解決に関しては、国連は全く役に立たないという事である。
あらゆる国家は、平等であり、国家間の利害関係は、自国が主体的な努力によって解決するほかには方法がない。
国連は、贔屓目に見ても、世界のおしゃべりフォーラムであり、自国の意見や立場の宣伝の場にすぎない。
国連は、世界政府ではなく、国家の上に存在する組織ではない。
平等に存在する国家が、便宜上、主体的に組織した団体であり、一国内で言えば、株式会社と言うよりは、任意の親睦団体のようなものである。
国連に頼っては、自国の安全保障がおぼつかないのは、その本質からしてあまりに当然の事である。
平等に存在する国家は、同時にみな、戦争をする権利を持っている。
国益を守る為に、宣戦を布告し、戦争をする事は、国家に与えられた権限であり、権利である。
北朝鮮が、アメリカに対して戦争を仕掛けるとすれば、それは愚かな行為ではあっても、国際上は違法な行為ではない。
人口2万人のパラオ共和国が、アメリカに戦争を仕掛ける事だって、合法的に可能なのである。
(最も、直ぐ負けるだろうが・・・)
日本国憲法第9条を読むと、日本は国権の発動たる戦争を放棄したようだが、日本が戦争を放棄しても、戦争は日本を放棄してくれはしない。
北朝鮮を含む如何なる国も、日本に宣戦布告をし、日本に戦争を仕掛けてくる事は合法でもあり、可能なのである。
そもそも、国権の発動たる戦争を放棄してしまえば、自らの身を守る事すら出来なくなるではないか。
純粋な防衛戦争もまた、戦争の1つの類型に過ぎないのである。
現在、日本国政府は、解釈改憲により、純粋な防衛の為の軍事行動は、国権の発動たる戦争とはみなしていないのであるが、本来から言えば、あまりに詭弁的であると言わざるを得ないだろう。
※ 参考、お勧め書籍
5月18日(月)は鉄道(JR)事故のため、中央線が遅れ、拓大(八王子キャンパス)の授業に丁度30分、遅刻してしまった。
不可抗力のアクシデントだったが、学生諸君には申し訳のない事をした。
さて、本日の講義の内容の1つは、
「 デモクラシー = 民主主義 」は誤訳だという事だ。
デモクラシーは「民主制」(民主政治制度)もしくは「民主国家」「民主政治」と訳すべきものであって、決してism、主義(思想・価値観)ではないのだ。
毎年、国際関係論の授業の初めに教えている事だ。
そしてデモクラシーとは国家統治の一形態である。
democracy は
theocracy セオクラシー 神権(聖職者)政治体制
timocracy ティモクラシー 金権政治体制
aristocracy アリストクラシー 貴族政治体制
autocracy オートクラシー 独裁政治体制
などと同じカテゴリーの言葉である。
cracyとは、支配体制、統治体制の意味である。
デモクラシーは、demo + cracy 。
つまり、民衆・大衆(demos)による支配体制という事であり、それ自体が善だとも悪だとかいう価値判断を含んでいないのである。
つまり「デモクラシー」は、democratism デモクラティズム ではないという事だ。
ismの類型で言えば、
socialism 社会主義
liberalism 自由主義
conservatism 保守主義
などが1つのカテゴリーに入るconceptである。
これらは思想・価値観を表す言葉(概念)である。
democracyとは複数のismが共存できるような国家の「仕組み(統治体制)」である。
民主国家内には、自由主義政党も、保守主義政党も、(穏健な)社会主義政党も共存できるのである。