(昨日の続きである)
昨日の話を復習すると、近代世界で初めて登場した覇権国家がスペインであった。
「対立軸こそが、世界秩序である」という私の観点から、より詳しく説明すれば、主要覇権国家スペインとこれに対立する準覇権国家ポルトガルの対立軸こそが、近代世界に登場した初めての対立軸=世界秩序であった訳である。
この世界秩序(対立軸)が崩壊するのが、1588年のイギリスによるスペイン無敵艦隊の撃破である。
これ以降、世界秩序は第一次群雄割拠時代に入る。
その群雄割拠の混乱の中から、いち早く抜け出し、次の時代の主要覇権国となったのが、イギリスであった。
イギリスの覇権国としての準備を完了させたのが1688年の名誉革命であった。
それ以降は、1914年の第一次世界大戦まで、200年以上に渡るイギリスの覇権時代が始まるのである。
主要覇権国イギリスに対する準覇権国は、この間、三国現れる。
第一の準覇権国がフランスであり、第二がロシアであり、第三がドイツである。
18世紀の半ばは、主要覇権国であるイギリスとこれに対抗する準覇権国フランスの植民地争奪戦が闘われた時代である。
フランス・ブルボン王朝の絶対王政がイギリスと対立し、これが当時の世界の主要な対立軸を構成した。
この間、いち早く産業革命を起こしたのがイギリスである。
象徴的に言うならば、スティーブンソンによる蒸気機関車の発明が1814年である。
これ以降、世界で初めての産業革命がイギリスに起こり、これがイギリス帝国の力を圧倒的にしていった事は言うまでもない。
イギリスに対抗していたフランスは、1789年のフランス革命によって大きな挫折を味わう事になる。
イギリスが1688年の名誉革命で成し遂げた近代革命に遅れる事、101年目にフランスは近代国民革命の時を迎える事になる。
フランス革命の混乱のあと、ナポレオンが登場し、ヨーロッパを席巻する。
しかし、イギリスは1805年のトラファルガー海戦でナポレオンの野望を挫き、1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを葬り去り、主要覇権国としての地位を盤石なものとした。
このフランスの没落の後に、19世紀半ばからイギリスのライバルとして登場した準覇権国がロシア帝国である。
海洋国家イギリスと大陸国家ロシアの対立は、「グレート・ゲーム」と呼ばれた。
イギリスは海洋国家として、アフリカの喜望峰を回り、中東さらにインドを制圧し、マラッカ海峡を経て、マレーシアからシナにまで進出する。
これに対抗するロシアは大陸国家としてユーラシア大陸を一途に東進し、極東を目指す。
イギリスとロシアという二つの帝国の勢力が衝突した場所が、くしくも日本列島であった。
思い返せば、スペインとポルトガルが世界分割を決めた1529年のサラゴサ条約でも、両国勢力圏を分断する線は、日本列島の真ん中を通っていたのである。
19世紀中葉、今また、イギリスとロシアのベクトルが衝突するのが、日本列島の上であった。
安政の大獄で刑死した景岳・橋本佐内は、この事態をいち早く見抜いていた。
佐内は、「日本は、イギリスと組んでロシアと戦うのか、ロシアと組んでイギリスと戦うのか、このどちらかを早晩、決断せざるを得なくなる。しかし、いずれにせよ、その時に必要な事は、日本が近代的な統一国家になっていることだ。」と、誰よりも早く警告を発していた。
佐内の予言から、50年後、日本はイギリスと同盟し、ロシアと戦う事になった。
言うまでもなく、日露戦争の事である。
事態は佐内の言う通りになった。
50年後を見据えていた橋本佐内の炯眼は、幕末の志士といわれる人々の中でも群を抜いたものであった。
1905年、ロシアは日露戦争に敗北する。
この敗北により、ロシア帝国は衰退期に入り、第一次大戦中の1917年にロシア革命が起き、ロマノフ王朝によるロシア帝国は滅亡する。
イギリスの第二のライバル、ロシアも姿を消す事となった。
この後に頭角を持ち上げて来るのが、ヨーロッパの後進国であったドイツであった。
ドイツの近代国家としての統一は、1871年であり、明治維新に遅れる事、3年である。
ドイツは文化文明においては進んでいたが、封建時代の小国分立を乗り切る事に遅れ、近代国家としてのドイツ帝国の成立は、著しく遅れたのである。
1871年のドイツ帝国の成立後、宰相ビスマルクの活躍等もあり、産業革命・近代化を大胆に推し進め、19世紀末にはイギリスの覇権を脅かす帝国主義国家として押しも押されもせぬ存在となっていた。
日露戦争におけるロシアの衰退以降、イギリスの主要なライバルとなったのはドイツであった。
第一次世界大戦(1914年から1918年)とは、単純化して言えば、イギリスの覇権にドイツが挑戦した戦争であった。
結果は、ドイツの敗北であったが、第一次世界大戦以降、イギリスの力も限界を迎え、日本やアメリカといった新興国の興隆もあり、世界は第二の群雄割拠時代を迎える事となる。
「第一次世界大戦から第二次世界大戦の終了まで(1914年から1945年まで)」が近代における第二の群雄割拠時代である。
この時代には、ヒットラーのもとで復活したドイツも、ファシズムのイタリアも、スターリン独裁のもとで興隆した共産主義国ソ連も、また、フランス、日本も、イギリスと肩を並べる強国(当時の言葉でいえば「列強」あるいは「一等国」)であった。
第二次世界大戦は、日独伊の後進資本主義国が、英米の先進資本主義国の覇権に挑んだ戦いであった。
共産主義国家ソ連が絡んでいる事が、事態をやや複雑にはしたが、第二次世界大戦の本質は、先進資本主義国家と後進資本主義国家の対立であった。
第二次世界大戦の結果、イギリスの覇権主義の時代は完全に終了した。
イギリスは、第二次世界大戦後、次々にその植民地を失い、覇権国家としては完全に凋落した。
第二次世界大戦の実質上の唯一の戦勝国として世界史に登場したのがアメリカである。
言うまでもなく1945年以降は、アメリカが世界覇権国家となった。
アメリカが主要覇権国であったこの時代に、準覇権国家としてアメリカのライバルとなったのがソ連邦である。
米ソの対立、言い換えれば米ソ冷戦が第二次世界大戦後の世界秩序の中枢を構成する対立軸となった。
1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦とその同盟国の明らかな衰退がはじまる。
1991年には、ついにソ連邦自体が解体し、15の共和国に分裂する。
1945年から1991年までが、米ソ冷戦時代(米ソ二極支配時代)であった。
ソ連の崩壊を受けて、アメリカの単独覇権の時代が始まる。
1989年のベルリンの壁崩壊をソ連を中心とする共産主義陣営の崩壊の起点と捉えるならば、これ以降、約20年、2008年のリーマン・ショックによるアメリカ経済の衰退の表面化までがアメリカの単独覇権の時代であった。
ベルリンの壁の前年、1988年には、東側陣営の経済崩壊の実態が、既に明らかになっていたから、数えようによっては、アメリカの単独派遣の時代は、丁度、20年続いた事になる。
2008年のリーマン・ショックが世界経済危機の引き金を引いた。
これ以降が近代における第三の群雄割拠時代である。
アメリカはその経済の衰退と共に、その軍事力も後退せざるを得ない。
横並びで見れば、未だに世界第一の強国ではあるが、アメリカにもかつてのような世界の警察官を務める能力は最早、存在しない。
2008年以降の世界では、いくつもの大国がお互いにライバル関係となっている。
注目すべきは、シナやブラジルや、インドといった低開発国が徐々に力をつけ、世界の大国として登場してきた事である。
ヨーロッパとアメリカの力は今後も徐々に衰退してゆくであろう。
これに対して、かつての低開発国の中から有力な国家が浮上して来ている。
これが現在、我々が住んでいる世界の大雑把な見取り図である。
今後、どこか単一の国家が主要覇権国として登場するような事態は当分考えられない。
近代世界の秩序の変遷を鳥観して言える事は、主要対立軸の構築とその崩壊による「無秩序時代(群雄割拠時代)」が3度繰り返されてきたという事である。
今後、このダイナミズムが繰り返し、新しい覇権国家が生まれるのか?、それとも世界史は全く新しい局面に入り、別の形の世界秩序が生まれるのか?が、我々の最も注目すべきところである。
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