12月のクリスマス・シーズンに向けて公開された人気映画「アバター」Avatar を観る。
ストーリーは単純。
22世紀の地球、某惑星に算出する貴重な鉱物資源“アンオブタニウム”を採掘する為に人類が進出。
ところがこの星には、「未開」の人類に似た知的生物が住んでおり、この“ナヴィ”と呼ぶ「未開土人」を追放しない限り、この資源開発は難しい。
そこで主人公のアメリカ人男性(元海兵隊員)は「未開土人=宇宙人“ナヴィ”」と地球人のDNAを遺伝子操作によって合成し、作り出されたハイブリッドの肉体「アバター」を与えられ、彼らの内情を探る為に潜入する。
しかし、主人公には自然破壊と住民殺害の下に行われる資源開発に反対するようになり、最後は先住民(宇宙人)“ナヴィ”の反乱軍のリーダーとして、開発企業の軍隊を打ち破り、人類を惑星から追放するというシナリオである。
全体はSF仕立てだが、映画の内包するメタファーを指摘する事は簡単だ。
▼ 宇宙人=未開人=低開発の原住民=前近代=エコロジーの体現者=善
▼ 開発業者=先進国の多国籍企業=近代=エコロジーの破壊者=悪
こうとらえると、この映画の構造とメッセージは極めて単純である。
つまり、「資源を開発する拝金主義者よりも、大自然と供に生きる原住民の方が素晴らしい」という事だ。
例えて言えば、アメリカン・インディアンが、西洋白人の北米大陸開発(=侵略=植民)を防いでしまう、というような話である。
単純な「勧善懲悪」と善悪二元の映画でもある。
現実には多国籍企業と、それと組んだ原住民の一部が勝利する事が多いのであろう。
こういった「開発vs土着」の対立は、様々な文明の様々な局面で繰り返されてきた。
我々が眼前にしている減少だけが全てではないのである。
私は自分を「縄文人」の生き残りのように感じているが、「弥生vs縄文」の文明間の闘いも、今述べたような文脈で考える事が出来るだろう。
弥生文明に亡ぼされた縄文人の生き残りが、今も日本列島には生息し続けているのである。
注目すべきは、この映画では、「低開発国の土着文化」が「大自然と調和して生きるエコロジーの生活」として、肯定的に捉えられている点である。
アメリカ映画の「第三世界(低開発諸国)観」は過去30年間で大きく変化し、肯定的なものになってきている。
1979年公開の「エイリアン」では、第三世界は、宇宙を地球を侵略する、残虐で奇怪な怪獣として描かれていた。
(私見では、エイリアンはホメイニ革命を象徴している。)
インディー・ジョーンズ・シリーズでも、第三世界は、暗黒の存在であり、啓蒙されるべき存在である。
ジョーンズ博士こそが輝かしき「ミスター近代」、「ミスター先進国」なのである。
「アバター」では価値観は逆転している。
一言でいえば、アメリカと第三世界の関係は過去30年間にこれだけ変化したのである。
かつて第三世界(低開発諸国)は、アメリカにとっては、嫌悪すべき、出来たら避けて通りたい、理解不能の、いざという時は力で制圧すべき存在だった。
それが、ともかくも共生しなければならない存在と認識されるようにはなっている。
経済的必然として、アメリカは第三世界の資源を、市場を必要としているのである。
(明日は、この映画のコンテンツ産業史、映画産業というビジネスの観点からもう少し述べてみたいと思う。)
海外出張期間、私への連絡が、取りにくい事になりますが、以下のアドレスにご連絡を頂ければ、必ず情報はチェックしておりますので、宜しくお願い申し上げます。
ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ事務局e-mail : info.cfg.future@gmail.com