昨年秋、村田良平元外務次官が回顧録(村田良平回想録 上巻?戦いに敗れし国に仕えて
)を出版し、その中でアメリカの核兵器の日本国内の通過が日米間の密約で認められている事を明らかにした。
その後の新聞各社とのインタビューでも村田元外務次官は密約の存在を確認している。
この密約とは、米軍が自ら持つ核兵器を日本領土を通過させる事を日本政府が承認したものである。
日本の領土(領海・領空を含む)を通過する事を認めたものである。
世の中では、この密約に対する批難轟々の様子だが、私はこの密約を断固、支持する。
密約という形で、日本国民に嘘をついてきた外務次官その他の関係者に対して、関係者を、私は心から賞賛する。
何故なら、彼らの勇気ある「嘘」のお陰で、過去数十年間(約50年間)日本の安全は、保たれてきたからである。
核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない、を非核三原則と称している。
持ち込ませないの中に、日本の領土・領海・領空の通過を許さないという原則を入れるならば、この密約は非核三原則に反している。
また、日本国政府は歴代そのような解釈を貫いてきた。
しかし、持ち込ませないの解釈を、日本領土の中に恒常的な核ミサイル基地を作らない、しかし核兵器の通過は許可する、という解釈を取るならば、密約は非核三原則には抵触しない。
しかし、非核三原則自体が適当なものであるかどうか、は私の一義的な関心事ではない。
最も重要な点は、米軍の核通過が、日本の核抑止力に貢献したという事である。
別の言い方をすれば、アメリカの核の傘という神話の信ぴょう性を、米軍の核通過が高めた事になる。
いずれにせよ、この密約のお陰で、日本に核兵器が一発も落ちなかったし、日本領土に対する公然たる侵略行為が、最小限に抑えられた事は事実である。
この、密約なしでも、日本国民の頭上に核兵器が落ちる事はなかったかもしれないし、日本国の安全は保たれたかもしれない。
しかし、それは仮想であり、夢想にすぎない。
われわれが知っているのは、密約が存在し、そして過去50年間、日本に対する核兵器の攻撃は抑止され、日本の領土に対するさらなる侵略は起こらなかったという事実である。
何故そもそも核兵器通過を密約としなければならなかったのか?
答えは単純である。
強大なマスコミの洗脳のもとに、多くの日本人が核アレルギーと呼ばれる異常な心理状態に陥っていたからである。
如何なる勇気ある政治家(例えば60年安保改定を実行した岸信介のような)といえども国民にそれを定義する事が出来ぬほどに日本国民の心理状態は、国際的な国防の常識からは遠ざかっていたのである。
最も大平元首相は、ライシャワー元大使に、この密約の公開を約束していたというから、ある時点から先は政治家の勇気の欠如こそ、責められるべきであろう。
特に、長期安定政権を実現していた中曽根元首相などの不作為の罪は誠に重大だと言わなければならないだろう。
国にどうしても必要な政策がある。
それがなければ国民の安全を確保する事が出きない。
しかし、その事を国民に公表すれば、国民はその政策を排除する事が目に見えている。
デモクラシーの国家体制を取る国で、このような状況に直面した時に、エリート(政策決断者)は如何に行動すべきなのか?
国民に嘘をつくというのが最も正しい、そして有効な解決策であろう。
時間をかけて事実を以ってして国民を徐々に説得してゆくしか方策はなかったのである。
国民の安全の為に、敢えて自らの手を汚して、必要な嘘をつき続けてきた関係者各位に心から私は敬意を表したい。
もちろん、中には単なる官僚主義的な慣習によって、この密約を守り、国民に嘘をつき続ける事に何の良心の呵責も覚えなかったものもいるであろう。
しかし、村田元次官のように、敢えて自らの道徳的な責務を痛感し、様々な危険を覚悟の上で、日本国民に真実を告げた外交官も存在しているのである。
こういった人々は、密約の存在に大いに心を痛めてきたのである。
今や、日本国民は真実に直面すべき時である。
日本の核抑止力を高めるために、堂々と事実を承認し、米軍の核兵器通過を認めようではないか。
それは、狭義の非核三原則を犯すことにはならない。
(通過は「持ち込ませず」の範囲には入らないこととする。)
日本の周辺を見渡してみよう。
ロシアとシナは核兵器を持ち、北朝鮮も核兵器保有国となった。
特に反日意識の激しいシナと北朝鮮の核兵器の保有は、日本にとって明白にして現前する危機である。
日本国民が密約を排して、堂々と米軍の核通過を認めれば、それだけで日本の核抑止力は高まり、日米安保条約の抑止力全般も向上する事になる。
今こそ、その決断の時である。
村田良平元外務次官の勇気と責任感に心からの敬意を表したい。
村田氏の行動は田母神元空将の行動と同様に、愛国心から発した捨て身の行動であるに違いない。
人は、マキャベリズムを批難する。
しかし、マキャベリズムは正しい思想かもしれない。
多くの人は、マキャベリを読まずして、マキャベリを批難している。
しかし、マキャベリが主張したのは、以下のような事だ。
イギリスやフランスに比較して、国家統一が遅れ、小国の分立状態にある祖国イタリアの憂うべき現状を見て、マキャベリはイタリアの国家統一こそ至上の国益であると喝破した。
そしてそのイタリアの国家統一という至上の国益を実現するためには、あらゆる方策は許されると主張したのである。
これに習い、(正しい目的の実現のためには、時には非道徳的な手段も許される)というのが正しいマキャベリズムの解釈である。
人は、この後半の非道徳手段の採用の部分にのみ着目し、マキャベリズムを批難する。
しかし、より重要なのは、前半の方なのである。
つまり、「正しい目的のためにこそ」非道徳手段は許されるのであり、あらゆる目的のために、非道徳的手段が許されるわけではない。
また、非道徳的手段の採用が、初期の正しい目的を破壊してしまうならば、非道徳的手段は実行されるべきではない。
これもマキャベリズムから引き出される当然の結論である。
俗な言い方をすれば、至上の国益が実現されるならば、「結果オーライ」という考え方である、と言ってもよいだろう。
この密約問題に関しては、日本国民の大部分はマスコミの誤った情報操作のもとにあったとはいいながら、あまりに愚かであったというしかないであろう。
敢えて、勇気あるマキャベリストとなった関係者の行動は、後世の歴史家に高く評価されるのではないか?