マイケル・ジャクソンが他界した。
この人の業績について、云々する立場に私は無い。
しかし、感じた事の何がしかをここで述べておきたいと思う。
彼は、私の知るところ、黒人差別については強い抗議の意思を持っていたようである。
しかし、それは、彼の美意識とは根本的に矛盾していたのではないか?
彼は、黒人である自分の外見を嫌い、ひたすら白人のようになる事を望んで整形手術を繰り返していたと聞く。
彼の、美の基準は、徹底して欧米系白人の美の基準であったに違いない。
これを悲劇と呼ばずして、何を悲劇と呼ぶべきだろうか?
1960年代から、70年代にアメリカで興隆した黒人解放運動に私は100%賛同するものではない。
しかし、彼らのスローガンの中に、1つすばらしいものがあった。
それは、「ブラック・イズ・ビューティフル!」というスローガンであり、思想である。
白が美しく、黒が醜いのではない。
黒人にとっては、黒こそが美しいのである。
このように、美の基準を自らの内側に求める思想には私は大いに感動した。
ところが、マイケル・ジャクソンの悲劇は、彼は「ブラック・イズ・ビューティフル!」と叫べなかった事である。
日本文化の美の基準は、日本人の心の中にある。
西洋のクラシック・バレエの美の基準と能の舞の美の基準とは全く異なっている。
私は、日本人として、能の美の方が西洋のそれよりも普遍的により深いものであると信じているものであるが、少なくとも、表面上は、平等なものである。
西洋の白人には、彼ら独自の美の基準があり、日本人には、縄文時代以来、培ってきた我々独自の美の基準がある。
マイケル・ジャクソンの悲劇は、自らの内なる美の基準を信じ切れなかったところにあるのではないか?
類まれなエンターテイナーの冥福を祈る。